台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

729 ブログ729 教師受難の時代

2013-08-24 07:31:35 | 台湾
今、学校の先生も大変な事態。何をしても、よく取られるとは、限らない。
一生懸命して当たり前。少しでも、ミスをしようもんなら、保護者がうるさい。
教師は文字通り「受難の時代」にあるという。仕事の急激な増加、学級崩壊、軽度発達障害を抱える子どもの増加、クレーマーと化す保護者。教師のメンタルヘルスは悪化し、うつ病になる教師が増加。その数は、一般企業の2.5倍になるとも言われている。

 現場には、多くの課題が山積み。かつてのように、「学生時代にそれなりに優秀だった人が、ふつうに真面目に取り組んでいれば務まる仕事」ではなくなっているという。その条件とは、「学級経営が上手で、学校に安心・安全な雰囲気を作ることができること」と「子どもたちの能力を高めることができること」。

  子どもをいじめなどの問題から守るために、「親にも教師にも求められる資質」があるという。それを一言で言えば、「安心して、助けを求めることができる大人」になること。「援助希求」をしてもらうようになるには、「この先生(親)は口がかたい」「この先生(親)は話しやすい。助けを求めやすい」「この先生(親)に相談したら全力で自分を守ってくれる」の3つの条件を備える必要がある。
 教師をはじめとする大人が、子どもたちから「助けを求めてもらえる関係」をどう作っていくか。これが子ども、ひいては混迷する教育現場、教師自身を救う鍵となる。
とにかく、現場の先生方なりに真剣にやってるのですが、社会の混乱、不安をもろに今学校が受けています。先生というという仕事が、今ほど、「しんどい」仕事になっている時代は、ない。
何でこんなに難しく成ったのか?
 世の中の親が今、生きるのに「しんどく」成っているからではないか?
親が今「安心」「安全」が奪われているから、少しでも、学校に「非」があると、訴える時代になっているのでは・・・。
 クレマーというレベルを超え、法律で訴える一まで出てきています。
つまり、教師・学校・市町村・県が訴えられる時代が来ているのです。
だから、教師は、不用意な「言質」を与えないように無難に過ごす、万の一、訴えられたときに備える。そんな状態ですから、いわゆる信頼される教育が出来るはずもありません。
 今学校は、「ミス」をしない教育。無難な教育。やり過ぎない教育。訴えられない教育。
すべて、守りの教育です。
積極的に、この学校ではこのようにします。このようにお子さんを伸ばしますと言えない現状・・・。学校が世間から、攻められている時代。
先生方大変だと思います。人員を増やしたり、ボランテアを活用したりして負担を少しでも、軽減してください。 
 いつまで、続くのですか。世の中の不安が解決するまで、続くと思います。
どうか「心と身体」の健康だけは、お大事に。img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/49/ddd808678148fda1128f85ef67c27df5.jpg" border="0">
再見。


728 ブログ728 人生で一番おいしいコヒーは?

2013-08-24 00:03:51 | 台湾
私は、二十歳になるまで、コヒーのおいしさを知りませんでした。
ある時、銀座の松屋で皿洗いのアルバイトをしていました。
そして、ある一定仕事を終えたとき、コックの方が私に一杯のコヒーを差し出してくれました。デミタスのカップにコヒーが・・・。
まず驚いたのは、「香り」。この香りの良さ。まずその香りを充分かぐ。香りが一杯広がり、 次に、一口、口にコヒーを含む 。そうすると、コヒーの酸味とうまみが私の中にしみこみました。それから、残りを飲み干しました。私の人生の中で、一番おいしいコヒーでした。皆さんもこういう経験おありでしょう。
 それ以来、飲むのは、コヒーと決めて飲んでいますが、之を上回るコヒーを飲んだことがありません。たまに、家内が入れるコヒーが近い物は、ありますが・・・。
いろいろな喫茶店で飲んでも、之を超える物は、ありません。
恐らく、舌ではなく、身体がのどが渇き、疲れていたからかもしれません。
その条件を作らないと同じコヒーは、味合えないのかもしれません。

 一つの食べ物にしても、お腹が空いているとき食べる時と、あまり空いて居ていないとき食べるのではまるで違います。お腹が空けば、どんな物でもおいしい。それと同じなのかもしれません。
それと、邪道ですが、カレーを食べた後、途中でコヒーを含むと、コヒーのおいしさが伝わります。食べ終えた後の方がおいしい。コヒーとカレーのスパイスが融合するのだと思います。
 世の中には、日本茶党と紅茶党とコヒー派三つに分かれます。それぞれ違った良さがあります。日本茶は、おいしいのを飲むと、「甘い」なんともいえないあたたかさが伝わる。紅茶は、香りかな。紅茶のおいしさ私は、知りません。
コヒー派は、酸味と香り。この二つの融合。どこの店でも味会えるわけではありません。
スターバクックス やセブンでもある一定のおいしいコヒーを。マックは、少しひどい。
台湾のマックですから、日本のマック最近味わっていません。
 どんなおいしい物を飲んでも、味会う側がわからなければ。何でも同じです。
インスタントコヒーでも、入れ方によっては、おいしく変身するようです。
温度と蒸らし時間、それと、注ぎ方。この三つなのですが、かなかな理想のコヒーは、入れられません。技術が未熟。どこか雑なところがあるのだと思います。
 ま、一生の中で、またあの「松屋」のレストランで飲んだコヒーの味を再現したい物だ。                             再見。

727 ブログ727 人とひとは、「縁」で結ばれている

2013-08-24 00:00:59 | 台湾
人とひととの出会いは、縁です。
誰と出会い、誰によって、人生の進路を決めるのか、それも縁です。
結婚が代表的な物です。
私のクラスでは、二組が結婚。一組が同級生同士。
これも「縁」です。
別に、意図的に仕組んだわけではありません。当事者同士が何かの「愛」を感じ、そして、結婚へ。
 私は、特別な縁は、ありません。たまたま、「ボーリング場」で「スキー場」で出会ったのが始まり・・・、そして、何より、たがいの住まいが近かった。
夜は、寒いから・・・・。いつの間にか、一緒に・・・・。
あれから37年。未だに、この「縁」を切らずにいるようです。私のほうは、いつ切られても、不思議のない勝手きままな生活しています。
親子も「縁」ですか? 縁にはちがいないですが「血」という縁の中でも一番濃い縁です。
 縁は、いつでも切れますか。
もちろん。自分で切りたいと思えば、いつでも、切れるし、結べます。
当事者同士の意志次第。それを世間では、「愛」と呼んでいます。
地縁・血縁・合縁・さまざまな「縁」があります。
 私が台湾に来たのも何かの「縁」かもしれません。もちろん、「縁」は、自分で選ぶことが出来ます。仕事も「縁」かもしれません。何をするか、時として、弁護士・時として、医者時として、獣医。何な成るかは、才能と縁。
 何と出会い、「刺激」を受けるか、その人の生きた時代・年齢・等いろんな物が重なり、自分の仕事が決まってきます。世の中で必要無い仕事というのは、ありません。
どんな仕事だろうと、プロになるのは、大変。自己鍛錬が必要です。
 その考えで行くと、すべて決まってしまっているように感じるのですが・・。
そんなことありません。自分の意志が働いています。その意志と意志のぶつかり・ふれあいが「縁」です。
 瀬戸内寂聴という作家がよく人生相談していますね。わたしは、たまに見ます。
彼女は、恋多き女。煩悩の強い、感受性の強い女性。作家として、一人前なのに、・・突然、僧籍を得て、坊主の修行。彼女の話を聞くと、人生は、「縁」であると言うことがわかるのではないか?
 生きるというのは、たくさんの縁の中で、繰り広げられるドラマ 。
このドラマ。
 一度見ると辞められないくらい面白い。そのおもしろさがわからない人も多い。
おもしろさではなく、煩わしさが感じてしまうようです。そういうメンドクサイ物もあります。自分一人で生きて居るわけではないのですから。けど、それも一としての「務め」のひとつ。
 ま、もうすぐ、日本に帰ります。自分のお務めを果たします。
再見。