今回も法華経の思想性について考えてみたいと思います。
法華経に明かされ、他の大乗経典に無い思想とは、日蓮が「二箇の大事」と呼んでいる様に「一念三千」と「久遠実成」の二つです。
一念三千とは簡単に言えば、仏の境涯(仏界)とは、人間の生きる中の根底に存在し、その仏というのも、日常の中を離れては存在しないという理論です。(これはあくまでも私の理解している内容です)
また久遠実成とは、人は元来から仏であるという理論です。
つまり他の大乗経典では、仏と衆生というのは「修行(因果)」によって、立て分けられていたのですが、法華経に於いてこの断絶は無くなってしまうのです。
この事について、法華経の内容に基づきもう少し細かく見ていきます。
◆序品第一
法華経では序品第一では、霊鷲山に多くの人々が集合している情景から始まります。ここで集ってるのは、多くの菩薩や釈迦の十大弟子、そのほかの弟子、在家の門下など多くの人々が集まりました。また人間だけではなく、諸天善神もその手下を連れて参加しており、その中には鬼神や龍神など、人間非ざる存在も集っています。そして釈迦はどうしているかというと三昧という瞑想に入ったままでいるのです。
そしてこの集っている人々が釈迦に合掌礼拝すると、「仏眉間白毫相の光を放って」とある様に未曾有な姿を示します。
この釈迦の姿を見て、弥勒菩薩は文殊菩薩に「これにはどういう意義があるのか?」という事を質問すると、文殊菩薩は過去の自分の経験から「大法を説き、大法の雨を雨らし、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん。」と、これから重要な法門を説こうとしているのであり、この姿はその瑞相であると言うのです。
◆方便品第二
すると釈迦はいきなり三昧から立ち上がり、弟子で智慧第一の舎利弗に語りだします。
「諸仏の智慧は甚深無量である、その智慧の門とは難解であり簡単に理解できるものではない。一切の声聞や縁覚はそれを理解する事は出来ないのである」
以降、釈迦は滔々のその諸仏の智慧について語りますが、途中で語る事を止めてしまいます。そしてその理由は「仏の智慧というのは稀有で難解なもので、ただ仏と仏だけがこの世界の様々な現象を究め尽くしているのである。」と言い、諸法(様々な現象)の実相(その根源の法)として十如是を語ります。
この後、釈迦は偈を説くのですが、そこでも仏の智慧が難解で信じ難い事を述べ、仏の説く処の法を大信力を以って信じる事を語るのです。
この説法を聞いた時、千二百人の弟子達が以下の疑念を持ちます。
「何故、釈尊は慇懃にもこの様な言葉を述べたのだろうか」
この事について舎利弗が代表して釈迦に問います。
「何故、それほどまで仏の智慧について讃嘆しながら、説く事をされないのでしょうか?お願いですから説いてください。」
すると釈迦は答えます。
「この事を説いたのであれば、人々は驚き疑いを生じてしまうので、説く事はしないのである。」
このやり取りは釈迦と舎利弗の間で三回繰り返されると釈迦は、この様に述べたのです。
「舎利弗よ、あなたは三度にも渡り教えを請うた。それでは汝のために分別して説く事にしよう」
この釈迦の言葉を聞いた時、その説法の場に居た五千人の弟子達が立ち上がって去ってしまいます。恐らく「舎利弗だけに説こう」という釈迦の言葉に失望して去ってしまったのかもしれません。しかし釈迦は法を求めない人は別に止めはしないというのです。そしてここで舎利弗に対して、以下の教えを説くのです。
仏はこの世界に、唯一大事の目的を以って出現する事。その一大事因縁とは。
・人々に仏知見を開くために出現する
・人々に仏知見を示すために出現する
・人々に仏知見を悟らせる事を欲するために出現する
・人々に仏知見の道に入らせようと欲するために出現する
また仏は過去の諸仏も、未来の諸仏も、衆生に対して一仏乗(成仏)の為に、様々な因縁・譬喩・言説を以って人々に対して法を説くのであり、声聞・縁覚・菩薩に対しても、一仏乗の為に説いたのであって、声聞・縁覚・菩薩になる事を目的に法を説いてはいないという事を語るのです。(これは開三顕一と呼ばれています)
◆譬喩品第三から法師品第十
方便品で語られる一大事因縁と開三顕一の事を聞き、舎利弗は釈迦の真意を理解して大歓喜します。すると釈迦は舎利弗に対して、遠い未来において華光如来として仏になる事を約束するのです。そして舎利弗は自分自身が理解した内容について、譬喩として語ったのが「三車火宅の譬え」となりました。
この譬喩品第三から法師品第十までの間、舎利弗の様に釈迦の真意を理解した多くの声聞・縁覚・菩薩に対して順次、釈迦は成仏の記別を与えていくのです。
かなり端折りながら、法華経の前半について説明してきましたが、ここで語られた内容とは「二乗作仏」であり、それと共に一念三千の「触り」の部分が語られているのです。しかしその事は、飽くまでもこの法華経の物語の上で、言葉として明確に語られているものではなく、物語の内容の展開を通じて示されているのです。
◆二乗作仏と一念三千の関係
法華経以外の大乗経典の中では、二乗(声聞・縁覚)は成仏が出来ない存在であると、釈迦から徹底して責めら続けた立場でした。この事について、舎利弗は譬喩品の冒頭で以下の様に語っています。
「我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等は斯の事に預らず。甚だ自ら如来の無量の知見を失えることを感傷しき。」
ここでは他の説法の場(他の経典)で、菩薩への成仏の記別を見て来たけれども、私達(二乗)には、この事(記別)にあずかる事は無かった事、そして仏の知見を失ったと感傷的になっていた事を述べています。
また日蓮は開目抄の中でも、この事については以下の様に語っていました。
「二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじとなり、諸の小乗経には悪をいましめ善をほむ、此の経には二乗の善をそしり凡夫の悪をほめたり、かへつて仏経ともをぼへず外道の法門のやうなれども詮するところは二乗の永不成仏をつよく定めさせ給うにや、」
しかし二乗が成仏をしないという事であれば、方便品でいう開三顕一はそもそも成り立ちません。つまり方便品第二で舎利弗が記別を受けたという事を通して、全ての人に「仏知見」は存在し、仏とはそういう人々の中の仏知見を開き・示し・悟らせ・道に入れる目的で出世した事、またその為に様々な法を説いた事を明かしたという事にもなるのです。
つまり方便品から法師品までの間で、天台大師の述べた「一念三千」のうち、十界互俱と十如是を示したと言っても良いでしょう。
◆法華経前半(迹門)の成仏観について
この法華経前半で、多くの弟子達や菩薩達に、釈迦は「記別(未来に於ける成仏の約束)」を述べましたが、この成仏とは、この段階ではいまだ「仏」と「衆生」が断絶した成仏観でしかありません。ここの記別とは「これから長い間、修行をした結果、遠い未来における成仏」を約束した訳であって、確かに二乗不成仏と言われた釈迦の弟子の声聞・縁覚が、遠い未来に於いて成仏できるという事だけでも、大乗経典の中に於いては大きな転換点でありましたが、仏と衆生という分断は解決していません。そういう意味では、未だ成仏という事について、真実が語られている訳ではないのです。
この仏と衆生の分断が解決されるには、久遠実成という事が必要となってくるのですが、それについては次の機会に述べていきます。