梅雨も後半に入ってきた様ですが、九州や中部方面では豪雨で大きな被害が出ています。当該地域の人達の無事を祈らずにはいられません。
しかしこういった災害に対して、どうも政府の動きがよく見えません。新型コロナウィルスのパンデミックについてもそうですが、そこに今回の災害です。複合的かつ広範囲の災害では、やはり日本政府の動きは大事だと思うのですが、どうみても政府の動きが後手後手に回っている感じが否めません。こういった政府の動きには忸怩たる思いがあるのも、そこにかつての自分が、この政権与党である公明党への支援をしてしまっていたという事実があるのです。
単に立正安国論の一節を述べて、ハイ終わり。そんな事ではなく、過去の自分の行いについて、こういう事で向き合わなければならないという事に、慚愧の念が絶えないのです。
さて今日の本題です。
前回の記事で紹介した創価学会の活動家から、昨日メールがありました。そして本日まで幾度かやりとりをしたのですが、そこで感じた事について今回は記事にしたいと思います。
本来であれば、頂いたメールの内容について、詳細を記載しても良いのかもしれませんが、そこは彼が私に対してあてた私信という事でもあり、今回は内容を詳述しません。(ただ今後、このメールの件で、この記事の内容を「虚偽だ」という事や、上塗りの批判をする様であれば、内容については詳らかに論述したいと思います。)
しかし一点だけ語るのであれば、私は彼を信用はしていません。何故ならばツィッターの発言で、私がフォローしている訳でもなく、ましてはフォロワーでもない彼が、私の発言に対して、乗っけから「安保法制の勉強不足が丸わかりですよ(笑)」とか「嘘はダメですよ嘘は。」と呼ばわった事について、単に一言二言、メールで謝罪があったとしても、それで百パーセント、そういった発言をした人を信用するほど、私はお人好しではないのです。
ましてや創価学会周辺には、ネットの監視を始めとして様々なフェイクが存在します。このフェイクの事について、現在の活動家に信じろとは言いませんが、少なくとも私の周辺にはある事なのです。
だからこの私が安易にネット界隈の人を、俄かに信用しないという事を、後々彼に言うよりも、やりとりする前提で私は彼に対して提示をしました。
すると彼の態度は一気に豹変。要は自分自身がこの言葉で傷ついたという事なのでしょう。
「ちゃんと地道に家庭訪問してました?してないでしょ。」
「「俺たちはお前らと違う」という悲劇的エリート根性丸出しです。」
この様な発言をして、要は私が彼の事を何も理解していないと指摘しはじめ、最終的に、彼は一方的にメールでのやりとりを打ち切ってきました。
いやいや、、、その前に良く書いた文面の前後を読んでみろよ。。。そうも思いましたが、得てしてこういう人は、ネットの中で「文字でやりとり」するわりに、文面を読み取る力があまり無いようです。
自分が人に対して吐き出した言葉で、相手がどの様に感じ、傷つけるのか。そこへの思慮も無しに、自身が傷ついた事だけを取り上げて、一方的に会話を打ち切る。私は彼のこの部分に対して、彼の心の中にある「深手」を感じたのです。
◆傷を持つのはお互い様
彼だけではありません。創価学会の言葉に感動し、そこに希望を持つ人の中には、心に何かしらの深手を負っている場合が良くあります。
一方で、アンチ創価学会になった人達の中にも、そこには深手が在る訳です。私の場合で言えば、四半世紀という人生の時間を、創価学会の中で捧げてきた結果、その創価学会が実に下らない組織であったという事実ばかりではなく、先にも述べた様に、今の日本の政治的な惰弱さを醸成したしまったという事もある訳で、そこに対する自己嫌悪というか慚愧の念というか、そういったものが常に存在します。
ネットでは、いわゆる「罵詈活」と「アンチ創価」の間では、辛辣な言葉の応酬が良くありますが、それには互いの中にある「心の深手の傷」というのが関係していての事なのかもしれません。
ただ一点、違うのは「罵詈活」の人達は、今の創価学会という組織に寄りかかる事で、その深手の傷を「互いに慰め合う」という場所がありますが、アンチにはそういう「互いに慰め合う」という、ゆるゆるとした場所は存在しません。まあ中には法華講や顕正会、もしくは他の場を見つけて、そこに依存する事で、再起できたと感じる人もいるでしょう。しかし少しでも創価学会の問題の本質に触れた人というのは、そんなゆるゆるとした関係にも懐疑的になり、嫌が応にも一人、自分自身と向き合わなければならないのです。
つまるところ、「罵詈活」と「アンチ創価」では、共に心の中に深手があると言っても、その深手の傷の質が全く違うのです。アンチ創価となってしまった人の「心の深手の傷」は、単に表面的な慰め合いや、よく創価学会でいう「激励」なんかでは修復できるレベルではないのです。そもそも創価学会の本質を理解していますので、そんな世界に戻ろうなんて考えられるものでもないのです。
私の場合、今の様に自分自身を冷静に見て、生きていける様になるまで十年以上の歳月を必要としました。創価学会の活動を止めてから、少しの間は自身喪失、人間不信。しかも学会の先輩や同輩からの軽蔑や罰論、また地元の組織内では陰口の嵐でした。
◆人生にとっての宗教とは
私は自身の思索の上で「人生にとっての宗教」についても考えました。結論としては人生を考える上で、ひとつの切っ掛けを与える存在であったとしても、人生を依存する存在ではないと言う事でした。自分自身の人生は、最終的には人生の終わり(「死」)の時に、自分で「生きてきた人生のケツを拭く」事となるのであって、そこは誰人も介入する事が出来ないという現実があるのです。その事を考えた時、単に宗教組織に依存していても、何も得るものなんて無いのです。
私は創価学会の活動から離れた十年以上にわたる年月で、御書を読み、そのほか様々な書籍に目を通し、日々の様々な経験や、時々に会う人との語らいの結果、その様な結論を持つに至りました。
思うにネットで、今の創価学会に強依存し、現実にある創価学会の姿を無視し、互いに過去の麗しき池田会長の言葉を語らい、そこで励まし合っていると言う人達は、自分達の繫がりの「要(かなめ)」として、今現在の創価学会にしがみついています。しかし肝心要の、その創価学会が組織的には腐っていて腐臭を建てている現実には、一向に目を向ける事はしません。またその事実を指摘をしても聞く耳はなく、ある意味でそこは「タブー扱い」していて、考えない様にしているのかもしれません。
でも果たしてそれで良いんでしょうか。
以上、今回のネット活動家とのやりとりの中から、私が感じた事について書かせてもらいました。
これも「一つの意見」として、見て頂けたら幸いです。