「裏切り者」スパイの命を狙う暗黒国家ロシア
英国のウェブサイトがスクープ、またもや暴かれたロシアの欺瞞
2018.9.30(日) JBPRESS
イギリスでロシアの元スパイが毒殺未遂の目に遭った。事件の真相を巡ってイギリスとロシアの間で一悶着が起きていたが、このたびイギリスのウェブサイトが容疑者の実名をすっぱ抜いた。ついに明らかになった容疑者の正体とは? 軍事ジャーナリスト、黒井文太郎氏がレポートする。(JBpress)
ロシアの主張が崩れた
9月26日、イギリスの公開情報検証サイト「べリングキャット」(Bellingcat)が、英国で起きた
元ロシア情報部員の毒殺未遂事件の容疑者2人のうち1人の身元を確認するレポートを発表した。
ロシア軍情報機関「参謀本部情報総局」(GRU)の大佐だということだった。
この事件に関しては、「GRUの犯行だ」と発表したイギリス当局に対し、ロシア側が「事実無根」と
真っ向否定していたが、そのロシア側の主張が崩れたことになる。
じつはべリングキャットはこの事件の真相解明を早くから続けており、それに対してロシア当局が
否定する攻防戦が続いていたのだが、今回、1人の実名を突き止めたことで、ついに勝負がついたと
いえるだろう。
当初から濃厚だったロシア情報機関犯行説
事件は今年(2018年)3月4日に、イギリス南部ソールズベリーで発生した。元GRU大佐の
セルゲイ・スクリパリが、実娘とともに毒物を盛られ、重体となったのだ。
スクリパリはかつて、ロシア情報部員でありながらイギリス情報部の協力者として活動していたところを
ロシアで摘発され、収監されていたが、米露の情報部員交換で釈放され、イギリスに亡命した人物だった。
ロシア情報機関からすれば、まさに「裏切り者」といえる。
そして、この事件が大きく注目されたのは、使用された毒物が、軍事用の化学兵器だったからだ。
「ノビチョク」というその化学兵器は、旧ソ連が開発したきわめて珍しいもので、そうしたことから、
事件当初からロシア情報機関犯行説が濃厚だった。
イギリスのメイ首相も直後からロシアの関与の可能性に言及していたが、同12日にはさまざまな
インテリジェンスからそれを事実上断定し、同14日にはロシア情報部員と思われる外交官23人の
国外追放を発表。対するロシアはあくまで事実無根を主張し、逆にイギリス外交官を追放するなど、
泥沼の対立関係になっていた。
ロシア国営テレビに登場した容疑者
ウクライナやシリアなどでのロシアの軍事介入の場合もそうだが、ロシアの悪辣な秘密活動に関して、
彼らがフェイク情報を駆使して欺瞞を堂々と通すことは、もはや国際政治の常識となっている。
この件でもロシアの犯行であることは明らかだったが、犯人は当然、本国に帰還しているだろうこともあり、
イギリスとロシアの主張は平行線のまま経過した。
しかし、実はイギリス当局はこの被害者であるスクリパリ元大佐の周辺や、イギリスで活動する
ロシア情報部員の活動などをかねてから監視しており、そんな調査からついにこの9月5日、
犯人2人を特定する。それは「ルスラン・バシロフ」と「アレクサンドル・ペトロフ」という名義の
ロシア旅券を持つ2人組だ。イギリス捜査当局は2人のイギリス入国からの行動を監視カメラ映像などから
確認して犯人と断定。顔写真も公表するとともに、欧州逮捕状を発行して国際手配した。
それによると、2人は3月2日にモスクワからロンドンに到着。翌3日に短時間ソールズベリーを訪問。
いったんロンドンに戻って、翌4日に再びソールズベリーに向かい、その4日当日のうちにロンドンから
モスクワに向かった。まさにソールズベリーで短時間過ごすためだけにイギリスを訪問していたわけだ。
なお、2人が宿泊したロンドン東部のホテルからもノビチョクの痕跡が検出されている。
それまでロシアは、この事件への関与を否定してきたが、このように具体的に犯人の旅券名義や
顔写真まで公表されたことで、その否定工作を行った。
まず同12日にプーチン大統領が「彼らは誰か分かっている。情報部員ではなく、民間人」と発言。
翌13日には、なんとこの2人をロシア国営テレビ「RT」が出演させた。
そこで本人たちが語ったところによると、旅券名義は彼らの本名であり、職業は軍人ではなく
フィットネス業界とサプリメント業界の企業家とのこと。ソールズベリーを訪れたのは、同地の大聖堂を
見るためで、純粋に観光旅行ということだった。ロシア側はこれをもって、2人を犯人とするのは
イギリス側の陰謀だと指摘した。
だが、2人のこの証言だけでシロとするのは、あまりにも無理があった。たとえば、彼らはなぜか
自分たちの身分証明書を番組では提示せず、仕事内容や私生活にも触れなかった。
また、ロシアの独立系経済紙「RBK」の取材によれば、この2人の名義で登録された会社は存在しなかった
という。なによりRTはプーチン政権の完全な宣伝機関であり、そこに出てくるだけでクロと
自白しているようなものでもあった。
ロシアの欺瞞を暴いた情報検証サイト
しかし、その後、情報戦の主役は、2人の犯人を無関係と主張するロシア当局と、その矛盾を証明する
独立系の民間サイトに移る。そのサイトこそ、イギリスの公開情報検証サイト「べリングキャット」である。
べリングキャットは、エリオット・ヒギンズという39歳のイギリス人ブロガーが2012年に始めた
ブログを母体とするサイトで、ネット上で入手できる公開情報を使ってフェイク情報を検証する
非常にマニアックでユニークな活動を展開している。調査対象がフェイク情報なので、
当然、主な相手は現在、世界で最もフェイク情報を拡散しているロシアとなっている。
べリングキャットはもともとは研究機関でも報道機関でもないサイトだが、特にウクライナで
ロシア軍がマレーシア航空機撃墜に関与していたことや、シリアで化学兵器がアサド政権によって
使用されたことなどを、現場で撮影された写真などを元に証明してきたことで、大手の国際メディアにも
たびたび引用される情報源として注目される存在になっている。
この元ロシア情報部員毒殺未遂事件に関しても、ロシア側の否定の欺瞞を暴く調査をいち早く
してきていた。今回、イギリス当局が2人の犯人を特定した際も、その直後にロシア側が、イギリスが
発表した監視カメラ映像について疑問を呈したことに対し、そのロシア側の過ちを指摘する
調査報告を9月6日に発表。さらに同14日にはロシアの独立系サイト「ジ・インサイダー」との
共同調査として、2人の犯人の旅券情報などから、彼らがGRUと関係している可能性がきわめて高いことを
証明した。
それによると、この2人の名義でのロシア中部での住民登録と旅券発給の記録は2009年に作成されており、
それ以前には存在しないという。また、2人の旅券はほぼ同時期に発給されているが、通常のロシア国民とは
違うきわめて特例的な発給が行われており、うち少なくともペトロフ名義の旅券情報には、情報機関員に
使われる最高機密扱いの特殊なマーキングが複数見られるという。
また、彼らが搭乗した航空便の記録からは、前々からイギリス旅行を計画していたとの2人の証言とは
食い違い、3月1日に予約されていた。帰国便も2日連続で重複予約するなど、まるで「脱出」を
想定したかのような準備ぶりだったとのことだ。
ロシアの反発が検証の信ぴょう性を高める結果に
こうしたべリングキャットの調査に対し、ロシア側は「ハッキングで違法に入手した旅券情報を
悪用している」などと批判した。ただ、それは逆にその旅券情報が本物であることを白状したような
ものだった。べリングキャットはもともと、一般に入手可能な公開情報から検証する活動を行っているが、
今回はロシア側の調査パートナーがいることで、旅券情報などの公機関の内部情報を入手している。
なお、こうした内部情報はロシア国内では闇市場で入手可能だが、今回、ロシア当局はその
情報漏洩ルートの調査に乗り出しているという。これも裏返せば、旅券情報らが本物であることを
示している。
ところで、このべリングキャットの発表を受けて、ロシアでは独立系メディア「ノーバヤ・ガゼータ」も
調査報道を開始。彼らの旅券情報に含まれる番号が、ロシア国防省の電話番号であることを確認した。
ちなみにこの「ノーバヤ・ガゼータ」はプーチン政権の暗部を暴き続けている勇気ある露メディアで、
記者が暗殺されたこともあるメディアである。
偽装旅券の持ち主は「ロシア連邦英雄」だった
べリングキャットはさらに9月20日、第2弾の調査報告を発表。バシロフ名義の旅券の記録情報でも、
ペトロフ名義旅券と同じ特殊なマーキングが確認されたという。
また、他のGRU工作員の旅券情報を照合し、この2人の旅券が同じ特別な手順で発給されていたことも
証明された。それに2人の名前で各出入国データを照合すると、とても民間の起業家とは思えない
レベルのスケジュールでの移動ぶりで、西欧各国や中国、イスラエルと目まぐるしく飛び回っていることも
判明した。もう2人がGRUの所属であることは明らかだった。
そして9月26日、べリングキャットはジ・インサイダーとの第3弾の共同調査を発表。
さまざまな仮説からデータを照合し、写真の確認なども入念に行った末に、
ついに今回、バシロフ名義旅券の保有者の実名を突き止めた。「アナトリー・チェピーガ」という
GRUの大佐である。
バシロフ名義旅券の保有者がアナトリー・チェピーガであることを突き止めたべリングキャットの記事
べリングキャットの調査によると、彼は1979年、アムール州生まれ。18歳で特殊部隊員を養成する
軍学校に入り、2001年の卒業後、ハバロフスクにあるGRU指揮下の特殊作戦旅団に入隊。
チェチェン紛争、ウクライナ紛争にも派遣されている。
2003年にスルラン・バシロフという偽名を割り当てられていたことも判明した。偽名での活動歴は
15年にも及んでいたことになる。
なお、チェピーガ大佐は2014年12月、プーチン大統領から直接授与される「ロシア連邦英雄」称号を
授与されている。この時期のこうした授与であれば、おそらく東ウクライナでの秘密活動に対する
評価である可能性が高い。
高度な政治判断だった暗殺作戦
今回のべリングキャットの調査報告に対し、イギリス当局は本稿執筆時点で特に情報を裏付けるような
声明は出していないが、欧米主要メディアは大きく報じている。
また、露紙「コメルサント」がチェピーガ大佐の地元を取材し、バシロフと名乗っていた人物が
チェピーガ大佐本人であることを確認した。
今回、ジ・インサイダーというロシア側の協力者がいたことは大きかっただろうが、国際的な
大手研究機関や報道機関ではない独立系の公開情報検証サイトが、地道な検証作業でロシアの欺瞞を
またひとつ暴いた。快挙と言っていいだろう。
ちなみに、べリングキャットは今回、別の元ロシア情報部員にもコンタクトをとってこの情報を
伝えたところ、通常、「ロシア連邦英雄」称号を持つ大佐クラスが直接、この種の工作を自ら
実行することは特別なことだという。それだけ今回の暗殺作戦は高度な政治判断によるきわめて重要な
作戦だったということだろう。
黒井文太郎
63年生まれ。『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て、現在は軍事ジャーナリスト。専門は各国情報機関の最新動向、国際テロ(特にイスラム過激派)、日本の防衛・安全保障、中東情勢、北朝鮮情勢、その他の国際紛争、旧軍特務機関など。著書に『ビンラディン抹殺指令』『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『紛争勃発』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』、編共著・企画制作に『生物兵器テロ』『自衛隊戦略白書』『インテリジェンス戦争~対テロ時代の最新動向』『公安アンダーワールド』、劇画原作に『実録・陸軍中野学校』『満州特務機関』などがある。