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チェルノブイリと新型ウイルス、独裁体制の限界

2020-02-17 22:00:20 | 思想・国家体制・脱中国・中国包囲網

チェルノブイリと新型ウイルス、独裁体制の限界

2020 年 2 月 17 日 05:54 JST  WSJ  By Yaroslav Trofimov

――筆者のヤロスラフ・トロフィモフはWSJ外交担当チーフコメンテーター

チェルノブイリ原発事故を受け、子どもの被ばく状況を調べる検査技師(1986年、ウクライナ)

 祖父から電話がかかってきたのは、ちょうどスーツケースの詰め込みを終えた時だった。

戻ってくることがあるか分からないまま荷造りするのは一仕事だ。

電話口の祖父は「いまキエフを去ろうとするな」と声を潜めた。「一生が台無しになる。

連中はこんなことを決して許さない」

 

 1986年の4月が終わる最後の日だった。16歳だった筆者はキエフで祖母と暮らし、

両親はニューヨークに住んでいた。ガールフレンドは商務次官の娘だったが、

第153中学校にはもっとコネのある同級生も何人かいた。3日ほど前、そのうちの1人が

目を爛々(らんらん)とさせながら、100キロメートルほど北のチェルノブイリ原子力

発電所の原子炉が炎上したと話していた。彼が週末に両親から聞いた極秘情報だ。

「俺たちみんな死ぬんだ」。そう言って狂ったように笑い声を上げていた。

 

 新型コロナウイルスの感染が広がり始めた1月上旬の中国のように、ソビエト連邦

構成国だったウクライナでも、国家の標準モードは秘密主義と現状否認だった。

春真っ盛りで、学校は日常行事を変更することもなかった。労働者の祭典である5月1日の

メーデーでキエフの目抜き通りを行進するため、生徒たちは戸外で練習に精を出していた。

チェルノブイリから放射性物質を帯びた煙が吹き出していることは、テレビでも一切

触れられなかった。

マークはチェルノブイリ

 スウェーデンで放射性物質が検出されるとようやく、ソ連の電波妨害をくぐり抜けた

貴重な西側のラジオ放送を通して、どうすればいいのか情報を得ることができるように

なった。甲状腺に放射性物質が滞留するのを防ぐヨウ素剤を地元の薬局に買いに行くと、

なぜそんなものを欲しがるのか訝(いぶか)しがっていた。その翌日、ヨウ素剤は

どこでも売り切れていた。

 

 ソ連当局は初の公式発表で、チェルノブイリの放射能が安定し、事故による死者は

2人のみで、各地で平常通りの生活が続いていると淡々と伝えた。内情に通じていた

ガールフレンドの母親は、この発表を聞いて避難すべき時だと決断した。700キロメートル

余り東の故郷ドネツク地方に、一緒に連れて行ってあげようと誘ってくれた。

 

 祖父は反対した。空軍退役中佐で、未出版のスターリン伝記を執筆した祖父は、

もちろん孫息子を愛していたし、放射能を恐れてもいた。だが人生を通して、連邦の

怒りほど恐ろしいものはないと学んでいた。たとえキエフのノーメンクラトゥーラ

(特権階級)であっても、ひそかに家族を逃がせば、連邦組織はデマを広める者や

逃亡者を罰すると脅迫していた。逃げだそうとすれば、その両方の罪人になってしまうと

祖父は警告した。

 

 筆者は祖父の警告を聞き入れず、ガールフレンドとその母親と共にドネツク行きの

夜行列車に乗り込んだ。列車の席は半分ほどしか埋まっていなかった。しかしその2日後、

ついに大規模なパニックが起き、キエフ中央駅のあちこちで人情劇が繰り広げられた。

キエフにとどまれば死を意味すると信じた親たちの中には、列車の窓から幼い子を

赤の他人に託す姿もあった。

 

 チェルノブイリの恐怖は連邦に対する恐怖心に勝り、全てが一変して、二度と元に

戻ることはなかった。強制と偽りに根ざした独裁政治は、その抑圧的な制度よりも

恐ろしい事態が発生すれば、存在の危機に直面する。1986年の夏、ウクライナの人々は

生態学や原発の安全性を公に議論するようになり、それはあっという間に共産主義と

モスクワの支配を拒否する独立運動へと発展した。

メルトダウンしたチェルノブイリ原子炉に向かう作業員( 1986年10月)

 ソ連がチェルノブイリの原発事故後にキエフのメーデーパレードを強行し、何万人

もの子どもたちに放射性粉じんの中を行進させたのは、中国当局が先月、春節(旧正月)

の大宴会を決行したのに通じるところがある。武漢の「百歩亭」団地で開かれたこの

恒例行事では、4万世帯以上が料理を持ち寄って祝宴に参加した。

感染者多数「政府から見放された」武漢市「百歩亭団地」からの絶望の叫び

 

 その3週間ほど前、現地の数人の医師がネット上の医師仲間に、原因不明の肺炎が

流行していると発信していた。状況を告発した医師らのもとには警察が口封じにやって

きた。こうした隠ぺいによって、武漢の一般市民は身を守るチャンスを奪われ、

ウイルスは国内外に野放しに広がった。百歩亭は感染が集中する地区の一つとなった。

 

 無論、チェルノブイリとの類似点はその程度だ。停滞していた1986年当時のソ連と

違って中国は力強い経済成長を遂げている。ソ連最後の大統領となった改革者の

ミハイル・ゴルバチョフ氏とは異なり、習近平国家主席は総書記に就任した2012年以降、

共産党の権限を強化し、反対意見をますます抑制している。13日には、湖北省と武漢の

党トップ2人を更迭し、側近を後任に据えた。

 

 ただ、中国でさえ完全な言論統制はできないことは、武漢で早くから警鐘を鳴らした

李文亮医師を死後に英雄扱いするという政府の判断からも明らかだ。李氏は危険を知らせ

ようとしたウイルスに自らも感染して死亡し、庶民の英雄的な存在になった。

武漢の感染流行は、国内の多くの都市で何週間にもわたる閉鎖や外界との交通機関の

遮断をもたらした。また、共産党独裁体制の中枢における秘密主義でトップダウン型の

アプローチが引き起こす巨額の経済的・人的損失を露呈した。

 

 米外交問題評議会のグローバルヘルス担当シニア・フェロー、ヤンゾン・ファン氏は

「2週間が無駄に費やされた。保健当局や政府はその間にウイルス感染を阻止できたかも

しれない」と指摘する。「今や中国の人々は真の変化を要求している。だがそれが実現

するか、政府がこの危機から本当の教訓を学ぶか、明らかになるのはまだ先だ」

 

 言うまでもなく、不都合な話を隠すのは独裁体制の本性だ。情報の流れを封じ込め

やすかった時代には、ソ連が航空機の墜落や潜水艦事故、列車事故の発生を認めることは

めったになかった。現在でさえ、1957年にウラル地方のキシュテム近郊で起こった事故を

知る人は少ない。チェルノブイリ事故の30年前、ソ連の核兵器開発施設で爆発が起こり、

チェルノブイリの半分近い量の放射性物質が放出されたのだ。何人が被ばくで死亡した

のか、正確なことを知る人はいない。政府は広大な汚染地域を封鎖し、国立公園にした。

連邦政府はチェルノブイリ事故の発生後まで、キシュテム事故の存在を正式に認めること

はなかった。

 

 中国で起こった近年の惨事も、隠ぺいと否認の似たようなパターンを示している。

2008年の四川大地震で何千人もの子どもが犠牲となった。親たちは学校の建物が粗悪

だったと訴えたが、政府当局はそうした声を押さえ込むことに注力した。

2011年、温州市で起きた高速列車の衝突脱線事故を受けた政府の対応は、生存者が

閉じ込められている可能性がある列車の残骸をブルドーザーでたちまち排除するという

ものだった。メディアの報道は禁じられた。

 

 中国で現在広がる公共衛生の危機に酷似しているのは、2003年の重症急性呼吸器

症候群(SARS)流行だ。ウイルスの発祥地となった広東省の当局は当時、現地の

投資減速を懸念し、感染のニュースが広まることを望まなかった。医療情報は厳重に

機密扱いされた。このため、SARSに対応した医師らは防護服などを使用する必要性を

知らされず、瞬く間に医師ら自身が感染。その多くが死亡した。

 

 中国メディアはSARS感染拡大を報じることを禁じられ、全国人民代表大会(全人代、

国会に相当)への関心をそらさないよう指示された。その結果、北京で数百人に感染が

広がった。北京の軍病院の外科医だった蒋彦永氏が感染流行の深刻さを告発する文書を

配布するまで、政府は行動を起こさなかった。

 

 中国当局は今回、大規模な措置を講じるまでに以前ほど長い時間はかからなかった。

だが、新型コロナウイルスはSARSよりはるかに感染力が強く、既にSARSを上回る死者が

出ている。03年の英雄である蒋医師は、武漢の李医師のように自身が感染することは

なかった。しかしコロナウイルス感染が流行する現在、その声は聞こえてこない。

習体制のイデオロギーに反する容疑者とみなされ、自宅監禁中と伝えられている。

 


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