金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

供献土器というもの

波状突起口縁の土器は何なのか

八ヶ岳南山麓の縄文遺跡をフィールドにして「縄文農耕論」を唱えた藤森栄一 (1911-1973)は、
土器には三つの機能があると断じています。
「農耕社会での容器のもつ様相には、貯蔵、煮沸のほかに、いま一つ、供献という重要な要素
がある。」という。この「供献」とは、神仏・死者の霊などに供える意です。例えば、以下のような土器を指す。
「深鉢または甕の口縁部に、華と咲いた巨大な飾り把手のついた土器である。火焔の燃え立っ
たような越後馬高の火焔形、むくむく渦巻のように盛りあがった信濃曽利の水煙形、四つの塔の
ような人頭をあしらった信濃井戸尻の例、鎧のようにかたくよそおわれた越中氷見朝日貝塚の例、
むろん、そうした主体部と等大の大きな把手は実用ではない。」
     (「縄文人と土器」『藤森栄一全集』第 9 巻p .39)


縄文土器の形式分類論は大はやりですが、私の見るところ、供献としての縄文土器の研究は、
全くないがしろになっています(注5)。という
このような土器が日常実用なのかどうかも、何のために作られたのか、何を意味するのか、どれもまだ説明が付けられていないようだ。

これら一連の土器は装飾は様々に変えられて来たものの、波状突起の表す数については一連の変化について、暦、太陽暦、太陰暦と関係付けられると考える。
縄文時代早期に、暦開発の歴史を記録するためのものとして、波状突起口縁の土器が発明されて、数字を表現していた。当時の最新知識であり、宇宙観を示すもの、今でも通用している。

シュメールでは暦に関するものは無く、何処かから仕入れた暦を利用することにより農業生産が劇的に増加して、その商取引などから文字が発明されてきたというようだ。


縄文時代前期には取引は、シュメールのような商取引では無かったものだろうから、そのような文字の発明とは成らなかった。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 ウルク絵文字
2. ウルク後期の遺跡から発見される遺物のうち、最も注目される遺物のひとつはウルク絵文字粘土である。ウルク絵文字は後の楔形文字の直接の祖形となったことが知られている。現在明確に認識できる世界最古の文字で、狭義の「歴史」(文字で書かれた歴史)がここに始まったことになる。

3. ウルク絵文字がなぜ発明されたのかについては、ここ30年間ほどの研究で、考古学者や古文献学者の間でひとつの確たる合意が形成されるようになった。
それは、大量で複雑なモノの動きを記録する必要性から生まれた、という結論である。出土したウルク絵文字粘土のほとんどすべてがモノと数字を表示しているだけである。
メソポタミアにおける文字の始まりが、経済というきわめて実用的な動機から発生していることは興味深いものがある。
 ウルク絵文字粘土板や数字粘土板はウルク後期になって初めて出現するようになるのだが、長期間にわたる経済活動の一つの帰結として文字が発生したものと思われる。つまり文字の発生以前に文字の前史が想定されるわけである。

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台付鉢
井戸尻Ⅲ式  高さ22cm
  珍しい形の台付の土器だね。口縁にひとつ双眼が付けられているから、双眼台付鉢でもいい。
 「台が付く」ってことは基本的には直接地面に置かない、ということ。つまり神に捧げる時に使うものと理解される。難しい言葉で「供献」といわれるよ。
 
 ところがこの土器には内面にオコゲが付いているんだって。てことは、この土器で煮炊きをしたということだよね。それはまた珍しい。

 胴部の隆起線は、うねうねと蛇行して続いたり途切れたり。所々でくるりと巻いている。
 そして一箇所の双眼。この眼から長い腕がにょろにょろと伸びているかのようでもあるね。
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 顔面把手付土器は、縄文時代中期(5,000から4,000年前)に特徴的に見られる土器で、口縁部に人面を施した把手が付いています。その特殊性・希少性から、儀式やお祭りに用いられたものと考えられています。

顔面把手付土器の多くは、顔が土器の内側を向き、俯くように土器の中を覗き込んでいるため、器に入れた供献の食物を食する姿であるという説や、胎児を抱える姿であるという説があります。
右の土器は、昭和34(1959)年に、市内に住む考古学者・甲野勇氏を中心に行われた、南養寺遺跡の発掘調査において発見されました。
特徴としては、
(1)内外面に顔が表現されていますが、主たる顔が外を向いている
(2)比較的表現が豊かであるのに、口は内外面ともにない
(3)顔面のみでなく、手を加え人体文を施している
(4)三本指という奇怪な表現がみられること
が挙げられます。
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(5)祭器――渦巻文把手土器
八ヶ岳南山麓の縄文遺跡をフィールドにして「縄文農耕論」を唱えた藤森栄一 (1911-1973)は、
土器には三つの機能があると断じています。
「農耕社会での容器のもつ様相には、貯蔵、煮沸のほかに、いま一つ、供献という重要な要素
がある。」

縄文土器の形式分類論は大はやりですが、私の見るところ、供献としての縄文土器の研究は、
全くないがしろになっています(注5)。

そもそも「供献」なんて漢語は、日本の辞書に収録されていない中国語で、神仏・死者の霊などに供える意です。例えば、以下のような土器です。
「深鉢または甕の口縁部に、華と咲いた巨大な飾り把手のついた土器である。火焔の燃え立っ
たような越後馬高の火焔形、むくむく渦巻のように盛りあがった信濃曽利の水煙形、四つの塔の
ような人頭をあしらった信濃井戸尻の例、鎧のようにかたくよそおわれた越中氷見朝日貝塚の例、
 図 19 67 号住居址から大形石棒と共に出土した土器
     右端の浅鉢は内外面赤色塗彩がわずかに残っている。
  (資料)『忠生遺跡 A 地区(Ⅱ)』2011.3 口絵写真34

むろん、そうした主体部と等大の大きな把手は実用ではない。」
     (「縄文人と土器」『藤森栄一全集』第 9 巻p .39)
「火焔の燃え立った」「むくむく渦巻のように盛りあがった」「四つの塔のような人頭をあしらっ
た」「鎧のようにかたくよそわれた」というイメージの祭祀具なら、忠生遺跡B地区からも出土
していて「町田市指定・登録有形文化財」となっています。

これは、ちょっと縄文土器を勉強した人なら、縄文中期中葉(勝坂期、井戸尻編年では井戸尻
Ⅱ期、約 5000 年前)の土器だと知れるでしょう。町田市教育委員会は「深鉢形土器」と命名し
ていますが、ミスリーディングです。
少し注意深く観察すると、天地の下から4分の3、上から4分の1ほどのところに左右に櫛型の文様が走っています。この縦文様バンドによる胴部のくびれこそが、スグレモノなのです。私は「縄文資料展 縄文土器をよむ-文字のない時代からのメッセージ」(2019.7.20-9.23)において、真上から内側をのぞきみてはっきり確認したのですが、実測図右端の断面図に示されたように、ぐるりにくびれが突き出し取り巻いています。このくび

 図 20 忠生遺跡B 1 地区 19 号住居址出土の土器(町田市指定有形文化財指定)
(資料)『忠生遺跡 B地区(Ⅱ)』2011.3 p.57
 同上実測図
(資料)『忠生遺跡』町田市立博物館、2013 口絵写真及び p.70  35

れは上から差し込んだ簀の子を止め支えるストッパーの役割を果たしているのです。水を簀の子
まで注いで、簀の子の上に蒸そうと思う食品を置いて蒸しあげる、即ち蒸し器なのですヨ。

ところが、この本来の機能を差し置いて、この蒸し器の上部左右把手(とって)及び胴部くび
れ下には、むくむくと渦巻文が盛りあがっています。火焔のごとく、渦巻のごとく、人頭のごと
く、鎧のごとし、はたまたエノキダケのごとく、ヤツガシラ(サトイモ)のごとし。とぐろを巻
いた蛇文様の方は小さくちぢこまってしまっています。この際、名は体を表すべきで、藤森ネー
ミングに従って「渦巻文把手土器」(うずまきもんとってどき)と呼称するがいい。

この蒸し器を使えば、植物性食品、例えばサトイモをふかすことはできるでしょうが、煮沸に
とって、むくむく渦巻文は全く余分なシロモノです。ところが、どう見ても、この器の主要機能
は、むくむく渦巻の造形の方にあって、煮沸機能にはない。町田市当局者が「指定・登録有形文
化財」にしたくなったのも、むくむく渦巻文造形のゲージュツ性にほれぼれしたからに他ならな
いでしょう。蒸しあがる食品が、むくむく無数に増大して、今日も、明日も、明後日も腹を満た
してもらいたいという願望を巧みに表現したものというのが、私の見方です。

つまるところ、この「渦巻文把手土器」は、貯蔵や煮沸のための実用器具=「第一の道具」で
はなく、いま一つの供献、即ち祭祀専門用具=「第二の道具」に他なりません。
「把手土器」の中には、「把手」(とって)として、土偶の頭部のごとき乙女の頭部を取り付けた「顔面把手」があることが広く知られています。上の「渦巻文把手土器」の写真向かって左側の把手
が女性の顔に置き換わっているシロモノです。これは同時期の遺跡で多数発掘されているポピュ
ラーな把手土器です。同じ忠生遺跡B地区からは、土器本体からポロリもぎとられ顔面だけになっ
たものが出土しています。目尻の切れあがったアーモンド形の目、上を向いた豚鼻と太い眉毛、
ぽっかり開けた口。中期中葉の勝坂式把手土器によく見られる特徴的な顔つきです。図 22 の少
女の頭部は、渦巻文把手土器と同様の蒸し器の把手であった可能性が高いが、残念ながら、蒸し
器本体の方は行方不明です。

藤森栄一の「顔面把手」に対するイマジネーションは、縄文の新嘗祭を射程にいれています。
 図 21 忠生遺跡 B1 地区 14 号住居址出土の女性頭部
(資料)『忠生遺跡 B地区(Ⅱ)』2011.3 p.62   36

「その口はその蒸し器の食物を頬張るためいっぱいにらかれ、鼻孔はその香ばしい匂いを胸
いっぱいに吸い込み、その眼は、その味覚の素晴らしさを願望する眼なのである。」(同上p .102)
一方、忠生遺跡A地区からは、勝坂期の祭祀用土器がたくさん出土しています。先に 67 号か
ら大型石棒とともに出土した土器セットを見ましたが、ほかに 74 号住居址の出土土器セットの
写真を掲げます(図 22)。
74 号出土土器セットのなかでは、大型浅鉢に注目してみましょう。器高 16.7㎝、口径 44㎝。
この大鉢に食物を盛って家族一同が共食するという一家団欒図は描けそうにもありません。背後
の5つの深鉢もそれぞれに念入りに作成された優品であって、日々の厨房で煮炊きのために利用
されたとは、到底思われません。秋の各種収穫物を取り混ぜ、この大型浅鉢に山と盛って、神前
に奉げる、日本の神社でいえば御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる神饌(しんせ
ん)のための祭祀具と考えるほかないでしょう。

注5:岡本孝之「用途・機能論」(加藤晋平ら編『縄文文化の研究 5 縄文土器Ⅲ』1994.11 所収)は、①容器としての土器、②煮沸具としての土器、③貯蔵具としての土器、④祭祀具としての土器、の四面から土器研究の成果を紹介している。そのうち④として研究が及んでいるのは、釣手・香炉土器、浅鉢、注口土器、小型土器・ミニチュア土器、精製深鉢などである。

そこで岡本孝之が安孫子昭二の研究報告を紹介しているのが注目される。
「安孫子昭二は、埼玉県石神貝塚の安行Ⅰ式土器の生成帯状縄文系深鉢と、粗製紐線文系深鉢の比率は3:7となるが、前者は4タイプに分かれ、4タイプが1セットになるとみて、祭りの器として機能し、使用後も一括して廃棄され、それは粗製深鉢が9個体文消耗する間に1度の割に行われたと推定した」(同上p .258)

 安孫子自身から贈呈を受けた論考をさっそく参照してみると、彼の研究方法上のネライが以下の点にあることがわかる。
「祭りの煮炊きにしか使われず痛みのすくない器と、日ごとの煮炊きで損傷はなはだしく、壊れてすてられる消耗品との末路の違い……この観点に立ち、質・容量・出土状況、火熱・煤のうけ方、使用による損耗などについて、早期以来の波状口縁深鉢と水平口縁深鉢との比較をすすめたいものである。」(佐原真編『日本の原始美術② 縄文土器Ⅱ』、講談社、p .55)
 私が求めているのは、農耕祭祀具としての縄文土器の研究であるが、不勉強にして未だ有力な研究成果にめ

図 22 忠生遺跡 A 地区 74 号住居址出土の土器
(資料)『忠生遺跡 A 地区(Ⅱ)』2011.3 口絵写真  37

ぐりあえていない。最近の成果としては、安孫子のご好意により、中村耕作「葬送儀礼における土器形式の選択と社会的カテゴリ――縄文時代後期関東・中部地方の土器副葬と土器被覆葬」(『物質文化』№、2008.5)の、浅鉢、鉢、注口土器、舟形土器の研究を参照し得ている。識者のご教示を乞いたい。


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