金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

サケ 鮭の遡上回帰漁 火焔土器

両面加工ポイントはなぜ作られたのか

それはサケ漁の効率を上げるために工夫された結果作られたものでは無いのか

 

槍の穂先はポイントと呼ばれそれには加工方法の違いから
石刃技法と両面加工技法がある
両面加工技法のポイントは、サケ漁の効率を上げるために必要だったのでは無いか
石刃ポイントと両面加工ポイントの実使用上の違いは何か

 

               石刃技法の石刃

              両面加工技法の石槍

 

大型動物を刺す槍は数回刺してポイントが折れたとしても、一頭仕留めることが出来れば
御の字である、不都合は無い。
サケ漁の場合は数匹捕らえても折れてしまえば、一匹の大型動物並みの食料を得るには
何十本かのポイントが必要となり大変効率が悪い。
つまりサケ漁では一本の槍で数十匹を取ることが出来ないと、大型動物猟に並ぶような
効率は得られないことになる。

石刃ポイントの耐久性
石刃ポイントの場合はポイント内に曲がりがあり、ポイントに力が掛かれば、
応力がその曲がりに集中して疲労することになり折れやすかったのでは無いか
それに対して、両面加工ポイントの場合は、ポイントに力が掛かっても、全体の形が対称形をしているので、
応力は根元に集中するだけで、先端は摩耗しても、疲労折損を生じる部位は無いと考える。
サケ漁ではこの数十回の使用耐えられるポイントの作成技法が問題となったものと考える
石刃ポイントは曲がりを排除することが出来ず、耐性を上げることが出来無かったのではないか。両面加工ポイントは対称形に作られていて、これに対応出来たものと考える。

石刃ポイントから両面加工ポイントへの変化は、大量のサケを効率的に捕らえるポイントを必要とする、サケ漁を主とすると見られる信濃川流域ないし、サケ漁を主とする地域で開発が行われたものと考える。
両面加工ポイントの作成技法の確立は、旧石器時代からの石刃技法から飛躍であり、
画期的な方法で新石器時代の端緒となったものと考える
信濃川流域には旧石器時代からの遺跡が多く存在していることから、そのポイント作成の進化変化過程を捉えることが出来るのでは無いかと考える。その技術開発は信濃川流域でも古くからの石器時代の遺跡が集中する津南町地域で行われたことが立証できるのでは無いか。
新石器時代はサケ漁を主とする信濃川流域の石器開発がその端緒となったものではないかと考える。
それは世界の古代文明の歴史の中で、最初に新石器時代を開いたものではないか。

石刃ポイントの量と両面加工ポイントの量とがどのような変遷を示すのか、それは今整理されていないので、分らないが
石刃製作量は桁違いに多いものだったものと推測する、今後の検討課題の一つであると思う。

 

ーーーーーー2024.08.30 初稿

信濃川流域で爪形文土器が少ない理由

信濃川流域では、旧石器時代以降サケ漁が中心的で
この地域での狩猟は、生業上で寄与が大きくなかったのではないか

旧石器時代以後、流域ではサケ漁のための尖頭器類の開発が継続的に
行われてその歴史が辿れる
石鏃は少なく、おそらく外来のものである
石鏃の画期性はこの地区では低い認識であったものと考える
そのため爪形文土器は集団の祭の中心に入ることは無かったのだろう

 

          この図はお借りして一部手直ししています

サケ漁に何故細石刃を埋め込んだ槍の穂先が使われなかったのか
石材が豊富に入手できて、尖頭器系の効率的槍が開発できたのでは
両面加工尖頭器はサケ漁のためでは無かったか
この地区では尖頭器開発の歴史を旧石器時代以降辿れるようだ。
石鏃開発の歴史はこの地区では見いだせないだろう

信濃川沿いのサケ漁は、旧石器時代以降続けられていたものの
こよみが無かったためサケ漁は不安定だったのでは無いか
伝統的占い師のもとで続けられてきたが、そこに半年四分こよみの知識が入ってきて
遡上回帰猟の時期が正確に予測でき、集団でのサケ漁は安定したものだろう。
そのインパクトは劇的で、それを喜び記念したのが火焔土器で、流域沿いにはその変型と見える水煙土器も生まれていた。

 


これは 500年ほど続いたが、気候変動か、サケの取り過ぎか、サケ漁は無くなってしまい
火焔土器文化も消えた。
旧石器時代以降続いてきたものが失われて、その後は一年こよみ8突起土器の農耕文化が入ってきた。

 

 

 

 

ーーーーーー2022.11.24 初稿

信濃川の鮭漁は、千曲川から相木村の上流まで遡上回帰が推察できるようだ。
また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を持つようなものだった。ともいう

遺跡からの出土物を総合して、秋には木の実を採集し、森では動物を狩猟し、四季折々の海での漁労活動などがうまく組み合わされて、豊かな生活を送っていたと考えられる。
という


このような生業を組み合わせての巧妙な狩猟、漁労、採集作業は集団として行ったものと考えるので、暦無しに行えるなどということは考えにくい。集団の人々の同意の下で行われたはずである。
信濃川での鮭漁は遡上回帰の時が存在して、その予測に基づいて行われていたものだったと考える。
それを推測させるものは、4波状突起土器だったと考える。


半年4分暦が作られ、鮭漁に当たっては特に夏至以後の秋の鮭の遡上回帰時期の予測が出来るようになり、それに驚き、そのことを祝うものが火焔土器と呼ばれるものと思う。しかしこの火焔とは何を表現していたのだろうか、想像できない。
火焔土器という名称に対しては、波の模様を示すものであるとの考え方も存在していて、鮭の回帰漁から考えるときは、波の模様であるとする方がむしろ実情に合うものと考える。特に火炎土器の発生は西会津からと言う話もあり、秋にはクリやキノコ、阿賀野川や只見川ではサケもとれたようなので、サケの捕れる流域とすれば土器の波模様は意味も分りやすい。

この時期魚釣り方式の漁から、好漁が可能となった遡上回帰の鮭を待つことになったのでは。
それは気候的なものが関係して、この時期の中期の気候が鮭の遡上を豊富にしていたのだろうか、しかしそれも500年ほどの短期間で終わったもののようだ。寒冷化して鮭の遡上が来なくなり、その結果生業が変り、土器が変化する形で示されているのでは無いか。その後に続いた土器は保温性の高い、煮沸に対応する蓋付きの土器のようだ。


寒冷化


図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

2023.11.11 この項ついかしました   ■火炎土器は、そのほとんどが新潟で見つかっている。

北関東や福島県で「火炎形系土器」などと呼ばれているものが出土していますが、これは形と文様帯の区分だけが似ている土器群であって「火焔型土器」とは呼べないものです。
私は、火炎土器について調べる前までは、この土器は1個しか発見されていないのだと思っていましたが、東日本の200を超える遺跡から発見されているそうです。
 そのほとんどが新潟県内で発見されていて、山形・福島・群馬・栃木・富山などの周辺地域でも出土していますが、それらは新潟県内のものに比べて、器形・文様ともかなり変化したものになっています。
典型的な火焔型土器は、新潟県内に分布が限られ、なかでも最盛期の火焔型土器は中魚沼郡津南町から長岡市にかけての信濃川上・中流域で集中的に出土しています。

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⑥【栃原岩陰遺跡】(とちばらいわかげいせき)
 長野県南佐久郡北相木村で1965年に発見された縄文時代早期の岩陰遺跡である。所在地は北相木村字東栃原上ノ段。1987年に国の史跡に指定されました。栃原岩陰遺跡は、10体以上の縄文時代早期の人骨が出土したことで知られ、土器、石器、骨器、食料にしたと思われる多数の動物(絶滅したニホンオオカミを含む哺乳類、爬虫類、淡水性の魚介類など)の骨なども出土しており、縄文時代早期の衣食住の研究に非常に多くの資料を提供している。遺物中、骨製の釣り針、縫い針の精巧さは類を見ず、当時の人々の技術水準の高さを物語っている。これらの遺物の多くは出土人骨から復元された「相木人」の頭部復元模型などとともに北相木村考古博物館に展示されています。
(※参考:Wikipedia)

 長野県南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげ)は、12体の縄文時代早期の人骨が出土した事で有名であるが、八ヶ岳から流れ出た相木川泥流が堆積した崖を、相木川が長年月に亘る流力で削りとった岩陰に縄文早期の小規模な遺跡を3つ残した。そこでシカなどの足の長管骨を裂いて作った釣針が出土した。しかもサケ・マス類の脊椎骨までも伴出した。日本海の信濃川から千曲川を遡り、さらに遡上を続け、群馬県の県境、長野県の相木村にまで達していた。
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縄文早期には釣針がつかわれ、網の技術も中期には開発されています。
また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を創出しました。大量の貝塚、縄文中期から始まる製塩技術など海と共に縄文文化は存在してきたのです。
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笹山遺跡出土火焔型土器(新潟県十日町市) BC3,300年~BC2,800年 参考資料
「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」とは、有名な火焔型(かえんがた)土器を含む928点の出土品で構成されている国宝の正式名称です。火焔型土器は、立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器です。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展したと推定されています。
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■縄文時代は、我々が考える以上に食料が豊富だった。
春には山菜が芽生え、夏の川にはアユなどがあふれ、秋にはクリやキノコ、阿賀野川や只見川ではサケもとれた。冬には山奥の動物が深雪を避け麓に降りてくる。
貯蔵穴(ちょぞうけつ)で食材を保管するなどの工夫で、年間を通じて豊かな食生活を送っていたのだ。
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夏島第一貝塚は、3つの貝層が貝殻をほとんど含まない黒土の層をはさんで整然と堆積し、それぞれの層から縄文早期の土器が出土した。
下の層から順に撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器が出土しており、これらは早期初頭から終末までの土器である。
特に最下層の褐色土層からは、厚いところで15センチメートル 、長さ約2メートル程のヤマトシジミやマガキを主体とした土混じりの貝層(混土貝層)が検出された。
この層の撚糸文系土器は単純な文様で底が尖っており、特に夏島式土器と呼ばれる。
第二貝塚からは縄文早期後葉の土器が出土している。

縄文早期の土器は日本最古の土器として注目され、1959年(昭和34年)に年代測定依頼先のミシガン大学から報告があり、出土した貝殻の放射性炭素年代測定では、BP9450±400年、木炭ではBP9240±500年という年代が得られた。これはそれまでの考えより縄文時代の開始年代が5000年近く遡ることを意味し、大きな論争になった。なお、今日では青森県大平山元I遺跡出土の土器の較正年代が16500年前と発表され、縄文時代の開始が一万年を超えることがはっきりしてきている。

第一貝塚から出土した遺物からは、貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。
出土量が多いボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、銛やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。
またマグロやカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。

貝層下(ローム上面)から炉跡を検出し、遺物散布地も認められるので、住居跡の存在することが想定される。そのほか貝層からは、固い殻で覆われたドングリやクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿や磨石などの石器の道具類が出土している。また、シカやイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

これらの出土物を総合して、秋には木の実を採集し、森では動物を狩猟し、四季折々の海での漁労活動などがうまく組み合わされて、豊かな生活を送っていたと考えられる。
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■火炎土器の用途は?
火焔型土器は、貯蔵穴や住居跡などから出土していますが、特殊な状態で出土した例はまだ報告されていません。また、内面に炭化物(おこげ)が付着した例が多く見られることから、煮炊きに使われた土器であることは間違いありませんが、日常的に使われるものではなく、祭事などの特別な時に使われた土器であると推定されています。
総数に対する割合を見てみると、笹山遺跡出土928点中、深鉢形土器が57点。その内、火炎土器は火焔型土器14点+王冠型土器6点の計20点ということになり、20/928=約2%と、希少な土器であることから、およそ日常用ではなく、特別な時に用いられたものと考えられます。特別な時とは?祭りでいいのでしょうか?
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■中期の中頃に出現、中期の終わり頃に突然姿を消す

火焔型土器は、縄文時代中期の中頃(約4,500年前)に出現し、そして消滅してしまった短命な土器です。
その出現に関しては、北陸地方の新保・新崎式土器、東北地方南部の大木式土器など周辺地域からの複雑な影響を受けたとされています。
(中略)
火焔型土器は、最盛期をむかえた後、続く中期の終わり頃の土器にほとんど影響をあたえずに、突然姿を消してしまいます。その消滅の様相については、まだ解明されていません
ーーーーーーーーーーーーーー

 新潟県を中心として分布する縄文中期の火炎形土器とは聞きなれた言葉である。最近は火焔型土器と称し土器様式として把握する動きがあるが、土器そのものは火炎の形を暗示させる意見があることから、形の字を私は使っている。この土器の形は縄文時代のエネルギ-を感じさせ、美術的な評価は高まる一方である。
 現在、火炎形土器の名称は、世間に一般化し、替えることが出来ない名称となっている。確かに雪国文化圏から生まれた暖かさへの願望がこの土器にこめられているのかもしれない。しかし、悪い癖で、ここでも私の中に、一つの疑問が湧き上がってくる。

 この形はほんとうに火炎を表しているのだろうか?。私は直感的に、波を感じた。通常ならば口縁部に平行して走る波形文様は波形隆起文とでも言うべきものだが、火焔型土器と称する研究者は鋸歯状突起という表現をしている。いうなれば火炎形という形にこだわり、波形という字を使いたくなかったのであろう。
 また、鶏頭冠把手とされる部分は波頭状把手と称してもよいと思う。信濃川の洪水時に現れる波頭、もしくは日本海の波頭が縄文人の脳裏にきざまれ、東日本の隆起文土器とタイアップして、葛飾北斎の波のような表現になったとも考えられる。このように波頭文と考える立場の研究者は多く、私が初めてではない。たとえばインタ-ネット上の『万象酔歩』さんは波頭水紋土器と言っている。
 波頭形隆起文が成立する時代背景は定住生活の助長からくる精神文化の高揚があろう。東日本の縄文中期中葉の隆起文土器の成立背景のなかで、考えるべきことだ。

 この波頭形土器(火炎形土器)の萌芽に関しては、飯山市大字蓮の深沢Ⅱ式土器の口縁文様が重要な鍵を握っていることはあまり周知されていない。故永峯光一先生は、すでに、昭和40年の深沢遺跡第3次発掘調査の際に、講演会で火炎形土器との関係を話された。ただ、それが火炎形土器の萌芽か、影響か、まだその頃の比較資料では断定できない状態であり、永峯先生は慎重な態度をとっていたと記憶する。
 爾来、研究者の一部はそのことに注目していたが、具体的に火炎形土器の萌芽については語られることはなかったと感じる。私は関東の五領ヶ台式土器の交互刺突鋸歯文が北信濃の深沢Ⅱ式土器にも残存し、文様の一部では渦巻文と重なって蛇身装飾文を成立させ、蛇のうねりを想像させる部分が波状にも見えることに注目した(注1)。
 その波形が深沢Ⅱ式土器の深鉢形や円筒形土器の口縁部ではまさしく火炎形土器の鋸歯状突起(波形隆
起文)とされる部分に一致する。本稿ではこれらの関係を明らかにし、深沢式土器の再検討と併せて、研
究の視点として取り上げたい。
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(3)火焔型土器の誕生まで
 火焔型土器が生まれる直前の新崎式土器の口縁部にはまだ顔が付いたものが多く、土器に正面性を持たせていると思われる。先の時代の残影だろうか。だが時期を追うごとにこの造作が顔であることは忘れ去られ、意味を取れない文様と化していく。装飾突起は四個となり、強い正面性は失われていく。この時期に突起の有様に最も意を用いたように見えるのは、新潟の人たちである。そこから生み出されたのが、火焔型土器である。新潟に東北地方との結びつきが強かったことによるのだろう、東北南部の大木様式の姿を参照にして突起を立体化する方向へ向かったのである。
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縄文土器中期の代表様式
 こうして中期から後期にかけて、あの強烈な火焔土器の原形が出現するのだが、そこではまず、新保式や新崎式が重用していた縄目文様を器面から追い出してしまうということをやっている。縄目に代わって隆線を偏重した。それとともに「突起」を燃え上がらせた。突起は4つに定まった。会津の火焔土器には3つの突起の土器があるのだが、それとも異なっていた。かつ、「鶏冠型」と「王冠型」の2種類を併用させた。
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火焔型士器[1][2][3]は,東日本全体で200個以上出土しているが,その出土点数の大半は新潟県内,特に信濃川中流域の中越地域に集中している.
その造られた年代は縄文時代の前期末の5650年前に始まり,後期初頭4350年頃に見られなくなった.火焔土器が初めて出土したのは,長岡市の馬高遺跡で,1936年に近藤篤三郎らの調査によった.上部には原則として4か所に大ぶりな鶏頭と称される把手が付き,その把手のついた位置を除いた口縁部には鋸の歯状の鋸歯文が4から7つ付けられているものが殆どである.これらの装飾が何を表したものかは不明だが,全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから火焔士器(火焔型土器)と呼ばれている.また,その使用はオコゲがついているものが出土する
ことから,煮炊きに使われたとか,その形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われていたとの考えが見られる.これに対し,4つの把手が付いているのみで,鋸歯文の見られない王冠型土器が同じ遺跡から出土することもあるが,口縁から把手の形状に関して類似したり互換したりするようなことが無いため,この2つの形状には何らかの対立する概念として形象されてきたのではないかと推察されている.尚,火焔型土器の高さは,最小13cmで最大は48cm,15cm・20cm・25cm前後のものがまとまって発見されている.また,その口縁部の直径は,高さの2/3程度で造られている.従って,一般的な生活用の皿や器と比べると大きいが,人が両手で持ち上げ,運べる程度の重さで大きさのものと言える.


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