阿多カルデラ噴火から避難した縄文人がシュメール人と成ったのかと想像していたところ
土偶に良く似たものをシュメール人も作っていたようだ。
写真はお借りしました
シュメール人はトークンというものを使って取引をしていたという。
縄文人の土版とシュメール文明のトークンとは似て非なるものだろうか。
土版は用途が分らないというので、広域取引の用途を想像してみた。
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
クレイ・トークンというのは、アメリカの考古学者ブセラートの打ち出したセンセーショナルな学説です。雄牛は牛の頭をかたどり、羊はその姿を丸に十字で示しています。このクレイ・トークンはいろんなところから出土していますが、かつてこれはたとえば「お守り」や「呪符」、また、アクセサリーとして使われていたと考えられていました。しかしそうではなくて、ある情報を伝達するのに使われたと考えたのがブセラートでした。四角形、三角形、菱形、円筒形などの形があって、それが織物や壺など特定の意味を表わす文字の前段階をなすものと考えたのです。クレイは粘土、トークンはしるしで、証拠の品を示すものです。実際にそれを裏付けるように、クレイ・トークンを個々に見てみると、それが形として似ているものが沢山あります。たとえば、牛はそのままの姿から次第に横向きの形に変化していったものであることがわかります。このように文字は、ある日突然オリエントの都市国家で生まれたのではなく、農耕生活の長い文化の試行錯誤のなかからたどり着いたものと言えます。
クレイ・トークンは粘土の袋のなかに入れたり、荷物のなかに入れたりして使いました。このクレイ・トークンが、のちの楔形文字になっていくのです。文字の歴史は、クレイ・トークンから古拙文字、象形文字、楔形文字へと展開していきますが、ではなぜそれらのものが西アジアで生まれたのかと言うと、木材はないが、河には腐るほど土があったからです。土は結構重たいものですが、粘土板の形で楔形文字が発展したのです。イラクのウルク遺跡に紀元前3100年頃の世界最古の文字といわれるものがあります。文字と言っても大麦の数量を示したものですが、その粘土板が約1000個確認されています。
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メソポタミアでは、紀元前8000年ごろから文字が誕生する前まで、財の出納管理の為に使われた球形、円錐形など様々な形で有模様や無模様のトークンと言う粘土で作られた1㎝位の大きさの計算具がありました。
そのトークンを保管する為に、中に入れて乾かした泥粘土の球 “ブッラ”が紀元前3500年頃に誕生します。ブッラは不正が無い様トークンを密閉できる封筒な様な役目を担っていました。そして、ブッラに入れたトークンの内容が分かる様に、ブッラに押捺をするようになります。
時代が経つにつれ、トークンもブッラも押捺が複雑化することにより、トークンの代りに粘土板、そして押捺の代りに尖った用具で線画するようになってできたのが“ウルク古拙文字”なのです。
“ウルク古拙文字”は、ウルク遺跡で発掘された紀元前3200年頃の粘土板であり、楔形文字の最古の原型で、原シュメール文字とも言われています。数値記号と共に羊などの動物、人間の手足や頭、古穀物等の象形文字が書かれており、数量の記録であったとされています。
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まず、楔形文字である。解読の歴史を簡単に紹介した後、トークン(数え石)が楔形文字の起源だという現在もっとも有力視されている説を批判的に紹介している。記号の刻まれたトークンと文字の出現が同時だという指摘が正しいなら、トークン起源説は怪しくなる。だが、トークン起源説に代わる新たな説が披瀝されているわけではないが、シュメール語の物語に出てくる、王の伝言を使者が憶えられないので、文字を作ったという起源説が紹介されている。
著者はシュメール人は文字を単なる実用の道具としか使わなかったと考えているらしい。そして、『ギルガメシュ叙事詩』などシュメール語の文学作品は、後代のアッカド人がシュメール人に仮託して書いてものではないかと述べている。中世ヨーロッパ人がラテン語で詩や物語を書いたようなものか。
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世界最古の文字はメソポタミアで誕生した「ウルク古拙文字」である。「拙」の字を含むように、その文字は絵文字もしくは記号のようなものだった。これが時を経て文字大系が整い、使い勝手が良くなると、普及し易くなり、形を変えながら周辺に広く伝播する。
文字誕生の切っ掛けはトークンtokenとブッラbullaというものから始まる。トークンは「しるし」「代用貨幣」を意味する。これが何かというと計算具だった。文字が無い時代に記録をつける時にこれを使った。初めのうちのトークンは球形・円錐形・円盤形・円筒形など様々な形があり、それぞれの形で意味を持たせていた。時が経つと形が多様化してさらに線や模様が彫られるようになった。
トークンで、最も古いものはBC8000年頃の半定住や定住の農耕村落の遺跡で発見された。トークンによる財の出納管理に代わる、楔形文字による財の出納管理が行われるBC3000年頃まで、それが継続して使われていた。トークンは、主に穀物の貸し借りや家畜の飼養委託の管理に使われたようだ。
古代では、富を蓄えた村の有力者は、複数の人に大麦を貸し、羊の飼養を委託することが多かった。また、債務者にも、債権者がトークンの数をごまかすのを防ぐ必要があった。債務者ごとにツボに入れて保管していたトークンを、中空のボールの形をした粘土製封球に入れて封印し、保管するようになったのが、BC3500年頃のようだ。
いったんトークンを封球に入れると、封球を壊さないかぎり中身は確認できない。この欠陥を解決するために、生乾きの粘土製封球の表面に、中に保管しているトークンと同じものを同じ数だけ付着させておくことにした。しかし、付着させたトークンは何かの拍子にはずれてしまうことが多い。そこで、トークンを封球の中に入れる前に、まず一つ一つのトークンの押印痕を封球の表面に残し、その後でトークンを封球の中に入れ、封球を封印する。これにより、封球を割らなくても中身の内容や数が分かるし、保管にも安全である。「粘土製封球」を「ブッラbulla」という。ブッラはラテン語で「球」を意味する。
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■津軽海峡は交易の障害ではなかった
三内丸山遺跡の意味を考える上で、「北との交流」という視点が大切になってくる。というのも、縄文人は、日本列島だけではなく、北との交流をつづけていたからだ。
たとえば、サハリンで発見された黒曜石を分析してみると、北海道からもたらされていたことがわかっている。日本列島には、外来の文物が流入したことはたしかだが、列島側からも、交易品が渡っていたのである。
北東アジアと日本列島の緊密な関係も明らかになっている。たとえば、縄文早期中ごろの北海道東北部に、石刃鏃(せきじんぞく)(薄い石で作られた鏃)文化が華開いているが、石刃鏃は、アムール川中流域・下流域、バイカル湖周辺、モンゴル高原、さらには、中国東北部までの広がりをもつ北東アジアに広く分布している。そして日本には、サハリンを経由してもたらされたと考えられる。
縄文晩期から続縄文文化の時代(紀元前後~6世紀)に至ると、北東アジア(アムール川流域)から「鉄」が北海道にもたらされている。「鉄片」や「鉄製刀子(とうす)」である。
++++そうなのか
縄文人たちが津軽海峡を日常的に往還するようになったのは、縄文早期からである。これ以降、本州側と北海道の間に、文物の交流が始まっている。
たとえば、黒曜石の産地は、北海道と東北地方に存在するが、東北地方北部の場合、西側に偏っていて、そのため東側の地域では、西側の日本海側から黒曜石が流入しているものの、全体の割合をみると、北海道産の黒曜石を主に使用していたことがわかっている(70パーセント以上)。300キロ離れた場所から、黒曜石を仕入れていたという。
もちろん、黒曜石を得るためには、見返りの品が必要だったはずだ。
ベンケイガイの貝輪(貝の腕輪)は、東北地方北部から津軽海峡を渡り、北海道にもたらされた可能性が高い。また、太平洋側には、関東以南からつづく貝の道があって、日本海側にはみられない南海の貝が多数みつかっている。
ヒスイは、日本海を通じて、縄文中期後半には、糸魚川周辺から青森県や道南部にもたらされるようになった。
また接着剤に用いられたアスファルトは、奥羽山系を越えて、日本海側(秋田県から新潟県にかける地域)から太平洋側にもたらされた。
青森県に三内丸山遺跡が出現し、縄文晩期には亀ヶ岡や是川中居遺跡(これかわなかいいせき)などの高度な技術をもつ文化が展開された理由について、福田友之は『海を渡った縄文人』(小学館)の中で、次のように語っている。
本州最北にあり、気候的にはけっして恵まれない北東北の地に、このように豊かな内容をもつ縄文遺跡が多く分布するのは、海上交通の拠点となりうる好条件下にあったことが大きいと思われる。
++++そうなのか
こう福田はいい、津軽海峡が存在したところに、この地域の発展の理由が隠されていたとするのである。海峡の存在は、交流の妨げではなく、縄文人にとっては、「道」の役割を果たしていたわけである。
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もう一つわかったことは、縄文人の活発な交易活動である。
縄文時代、すでに20から30キロメートルの範囲で、日常的な物資調達圏ができ上がっていたことはたしかめられているが、通婚もおこなわれていた。そして、われわれの想像を超える遠方との間に、交流のあったことがたしかめられている。
たとえば、三内丸山遺跡にもたらされた黒曜石(こくようせき)(マグマが急速に冷えてでき上がった黒い天然ガラス。砕いてナイフや槍にした)は、北海道十勝、秋田県男鹿(おが)、長野県霧ヶ峰(きりがみね)などのもの、接着剤に用いたアスファルトは秋田県から、ヒスイも、約600キロ離れた新潟県糸魚川(いといがわ)市から流入している。コハクの原石などは岩手県久慈からもってきて、三内丸山の地で加工していた。これを、他の地域に運んでいったこともわかっている。
また、4000年前の三内丸山遺跡から出土した円筒土器と、同型の代物が中国大陸で発見されている。
ちなみに、山形県遊佐(ゆざ)町の縄文後期の三崎山(みさきやま)A遺跡からは、殷(いん)代の青銅製刀子(せいどうせいとうす)が、鶴岡市羽黒町(はぐろまち)の縄文中期の中川代(なかがわだい)遺跡からは、甲骨文字風(こうこつもじふう)の記号が記された有孔石斧(ゆうこうせきふ)が、青森県東津軽郡外ケ浜町(そとがはままち)の縄文晩期の今津遺跡からは、古代中国の「鼎(かなえ))」によく似た3本足の土器がみつかっている。
これらの例からも、縄文人が中国大陸との間を往き来していた可能性は、高くなるばかりだ。件の円筒土器は、三内丸山遺跡と中国の交流を裏付けている。
縄文人は、生活必需品を細々と「物々交換」していたというイメージがあるが、実際には、付加価値をもった「商品」を携えて、交易をしていたのだ。しかも、大海原を越え、行動範囲は、広大であった。
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■縄文時代の東北とヤマトはつながっていた?
黒潮を経由した東西の交流もあった。近畿系の土器が、東日本にもたらされもした。縄文後期後半に宮滝式土器(みやたきしきどき)(奈良県青野町宮滝遺跡出土土器が標式)が近畿地方から、東海地方に伝わり、さらに新島、大島にもたらされている。
これに対し、同時期、東北地方南部の新地式土器(しんちしきどき)(福島県新地町小川貝塚出土土器を標式とする)は、関東地方だけではなく、近畿地方にも伝わった。やはり、太平洋岸を舟で運んだようだ。
縄文晩期には、東北で亀ヶ岡文化が華開き、亀ヶ岡式土器が各地に伝播し、東日本を代表する土器になっていくが、奈良県橿原(かしはら)市橿原遺跡にも、伝わっている(ただし、橿原遺跡に現れた亀ヶ岡式土器は、北陸地方の影響を強く受けた代物だったが)。 そして、亀ヶ岡式土器の影響を受けた近畿の土器(橿原式土器)が、南部九州まで伝播している。また、橿原式土器によく似た土器が、このころ東日本にもたらされている。さらに、橿原型石刀は、近畿から東日本にかけて広まり、そののち、南部九州にももたらされている。
これらは、東西や南北の間で盛んに交流が行われていたこと、近畿から東北にかけて、緊密なネットワークが構築されていたことを示している。
ちなみに、近畿から南部九州への流通ルートは、これらの土器や石刀の分布から、瀬戸内海→九州西岸→南部九州であったことがわかる。
すでに縄文時代に確立されていた九州西岸の「海の道」は、近世にいたるまで変わることはなく利用された。それはなぜかといえば、九州西岸が多島海であったことに原因があると思われる。
陸の交易ルートも無視できない。
縄文後期前半のハート形土偶(頭部がハート形)は、福島県東部の阿武隈山地周辺で出現し、内陸の道を伝って北関東にもたらされている。
ハート形土偶につづいて縄文後期中ごろに出現する山形土偶(頭部が山の形をしている)は、関東北部から秩父を越え、甲信越、木曽を経由し、美濃、伊勢、さらには、伊勢本街道を伝って、ヤマト(奈良県橿原市橿原遺跡)へともたらされていたことがわかっている。東北地方とヤマトが、陸路でつながっていたのだ。
三重県の松坂市や度会町(わたらいちょう)からは、東北地方から新潟県に分布する土器とそっくりな代物が発見されていて、陸路を伝って、広大な地域が交流していたことを明らかにしている。三重県多気町丹生(たきちょうにう)では辰砂(しんしゃ)が産出され、赤色顔料・朱の原石となったが、関東地方や東北地方には、この丹生の朱がもたらされている。
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■縄文人が造り上げた広大なネットワーク
縄文人が、本州の最北端の海に画した場所に、千五百年の間拠点を造り、居住しつづけたことを、無視することはできない。今でこそ、青森県は都びた地だが、縄文人にとって、「この場所」に大きな意味があったと思えるのである。
そこでしばらく、縄文人の交易について、考えてみたい。
縄文人は、偉大な海の民でもあった。
縄文後期の佐賀県腰岳産(こしだけさん)の黒曜石は、約800キロ南の沖縄本島(仲泊遺跡(なかどまりいせき))に運ばれている。糸魚川周辺のヒスイ(硬玉(こうぎょく))の大珠は、200キロ離れた種子島で縄文後期の土器と共に発掘されている。
秋田県潟上市原産のアスファルトは、北海道函館市でみつかっている。742グラムのアスファルトのかたまりが、深鉢形土器(ふかばちがたどき)に収められたもので、これにより津軽海峡を股に掛けた交易がおこなわれていたことがわかる。
沿岸部で採取された魚貝類は、縄文時代を通じて、内陸部にもたらされた。魚貝類は食用だけではなく、装飾品にも用いられた。それらの共通性のある海産物の加工品が、海から遠く離れた内陸部にも運ばれた。直線距離にして600キロ、実質的には1000キロも離れた別の遺跡からみつかっている。つまり、縄文人は、広大なネットワークを構築し、交易品を運んでいたことがわかる。しかも、すでにこのネットワークが、縄文早期には、でき上がっていたことがわかっている。運搬ルートは、主に河川を利用していたと考えられている。しかも、のちにふれるように、このネットワークが、弥生時代の日本列島でも、大いに機能していたようなのだ。
伊豆諸島からは、海の道を利用して、本土に貝輪などの貝製品がもたらされた。遠く北海道まで、「貝の道」ができ上がっていた可能性が高い。
ところで、縄文早期に各地にもたらされた「貝」は、東日本では、中期、後期には激減し、晩期にふたたび増えるという傾向を示している。かたや西日本では、流通のピークは縄文前期と後期で、その理由は、解明されていない。
このような交易が盛んにおこなわれるようになったのは、縄文人が定住しはじめたこと、生活基盤が整い、新たな社会環境が成立し、他地域との戦略的な交流が求められたからだろう。
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縄文人とシュメール人とは
アイヌと琉球民族の形質は非常に近い。
アイヌと琉球民族の血は、国境のなかった古代にあっては、けっして日本列島だけにとどまるものではないという。
アイヌに関しては、太平洋の向こう、カナダの先住民トリンギット族と遺伝子的に非常に近く、九州の熊襲に関しては、遠く南米のインカ人と遺伝子がほぼ一致する。
---という。
太平洋の両岸で同じ遺伝子をもった人類がいるということは、当然ながら、間のポリネシアやミクロネシア、メラネシアといった太平洋諸島の人々とも遺伝子的に近いことを暗示しており、実際、アイヌや琉球民族の言語がオーストロネシア語という南方系の言語であることがわかっている。
つまり、日本列島の先住民であるアイヌや琉球民族は環太平洋文化圏もしくは汎(はん)太平洋文化圏に属するモンゴロイドなのである。
---ということのようである。 太平洋の周りでは縄文人のこのような広がりが云われていた。
では、シュメール人についてはどうなのだろうか。
シュメール人はどこからか突然現れて文明を作った民族と言われている
縄文人 日本語と同じ膠着語であるそうです。
彼らシュメール人は、日本語と同じような「仮名交じり文」を使っていました。
日本語と同じ主語・目的語・動詞という順番で話されるSOV型言語です。
日本語と同様、冠詞がない。
シュメール文字は子音のみならず母音を記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は子 音のみを表記する)。日本語も母音が非常に強調される特色がある。
このような言葉を話す民族は、周りにはいなかったと云うことで、出自不明の謎の民族とされている。
縄文人達が太平洋へのこのような拡散が予想されるのであれば、縄文人はシュメールの土地まで拡散していたと考えても良いのだろうか。
拡散の原因には九州の阿多カルデラ噴火からの避難していたという推定もある。
引用ーーーーーー
紀元前3000年(約五千年前)ころのシュメール 貿易の記録がウルrefで出土しましたが、東方海路の三箇所の積み替え港が記してあります。ATT現在の地名でバーレンとオマンとパキスタンです。
インド西部インダス河上流に今から約四千五百年まえの水道や衛生設備が整った文化都市の遺跡が発掘され ました。
出土品の研究で、この文化都市はシュメール人のインドの植民地跡であることが判明しました。
現在インド 南部に居住する目が大きく頭の丸い黒髪の背が低い民族は古代シュメールの血を引く者といいます。日本の 数千年前の縄文人と体型が良く似ていることは不思議なことです。 右図は紀元前3000年(約五千年前)ころのシュメール王の像です。
地図はお借りしました
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さらにいうと、シュメール語は、どのヨーロッパ系語族とも異なる構文を持ち、このため一般に言語系統が不明とされています。
ではシュメール語がどのような構文を持つのかというと、なんとこれが日本語と同じ膠着語であり、日本語と同じ主語・目的語・動詞という順番で話されるSOV型言語です。しかも日本語と同様、冠詞がない。
シュメールはおよそ7?8千年前からはじまったとされますが、残念なことに、シュメール以前の文明の痕跡、もしくは、その痕跡がシュメール文明に至るまでの過程を証明する遺跡がありません。
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・シュメール文字は子音のみならず母音を記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は子音のみを表記する)。日本語も母音が非常に強調される特色がある。
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たとえば、アメリカ・オリエント学会は、その学会誌の1988年第1号の巻頭に『ムル・ムルからスバルヘ』という論文を掲載している。シュメール学の権威であるS・N・クレーマーによれば、
「ついこの間まで、プレアデス星団を指すシュメール語ムル・ムルと、この星々を表す日本語スバルとの間に、何か歴史的な、あるいは文化的なつながりを想定するなど、だれにも夢想だにできないことだった。それが優れたオリエント学者ロイ・ミラーが、権威あるアメリカ・オリエント学会の会長講演をもとに加筆し“スバルの跡をたどれば、本当にシュメールの昔にまで行き着く”ことを論証したのである」という内容の論文だった。
そして彼は「将来のオリエント学は、日本の文化と古代シュメール文化の間に、このほかの様々なつながりを発見するだろう。このような比較研究は、近年までは想像もされないことだったが!」と言っているのである。
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民族的なことをいえば、縄文人は主にアイヌとエスキモー(イヌイット)から成り、弥生人は熊襲(くまそ)と琉球民族から成っていた。いずれも日本列島における先住民であり、その文化は今でもアイヌ文化や琉球文化として面影を見ることができる。
しかしイヌイットは別にして、アイヌと琉球民族の形質は非常に近い。体毛が濃く、顔の彫りも探い。一言語や風俗風習、伝承も非常に近いものがあり、遠い昔には同じ民族であったことが推察される。 だが、アイヌと琉球民族の血は、国境のなかった古代にあっては、けっして日本列島だけにとどまるものではない。
アイヌに関しては、太平洋の向こう、カナダの先住民トリンギット族と遺伝子的に非常に近く、
九州の熊襲に関しては、遠く南米のインカ人と遺伝子がほぼ一致する。
太平洋の両岸で同じ遺伝子をもった人類がいるということは、当然ながら、間のポリネシアやミクロネシア、メラネシアといった太平洋諸島の人々とも遺伝子的に近いことを暗示しており、実際、アイヌや琉球民族の言語がオーストロネシア語という南方系の言語であることがわかっている。
つまり、日本列島の先住民であるアイヌや琉球民族は環太平洋文化圏もしくは汎(はん)太平洋文化圏に属するモンゴロイドなのである。
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縄文人とは環太平洋文化圏の・・・
日本人で最も多い系統は「D1b」という系統で(約30~40%)、本土の日本人と沖縄やアイヌ民族に多く見られ、日本以外で多く見られるのはチベットしかないという世界的には稀な系統なのだそうです。このD1bの系統の人々は、約3万年前に日本列島で誕生した縄文人の系統だと言われています。
・今から一万年前までは厳しい氷河期(ウルム期)であり、この時代は海の水深が浅く、千島列島からベーリング海峡までは地続きであったと考えられ、縄文人は陸伝いにアメリカ大陸、次いで南米にも移住していると言われています。
・また、氷河期においては、日本列島は朝鮮半島とも地続きだったのですから、半島人も縄文人の末裔である、と言えるようです。
・結局、現在、日本海と呼ばれているものは当時日本湖とも言うべき巨大な湖だったのであり、この日本湖の周囲が全て縄文文化の土地であった、と言うことができるようです。
・縄文文化を“日本(国)の”文化と限定せずに、一つの時代区分として考え、同じ文化圏を共有する人種を“縄文人”として捉えるならば、インディオも縄文人の末裔と言うことができます。
・それに、それだけではありません。最近の発見からは、縄文人は太平洋を舟で自在に漕ぎ回っていたことが明らかになって来たのです。
ですが最近は、縄文文化の研究が進み、縄文文化とは世界最古の文化であるらしい、ということが実証されつつあるそうです。
中国大陸の新石器時代は日本列島の縄文人達の同族が居住して、自由に交流し、縄文文化であった(参考)。以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。
北から興隆窪文化、紅山文化、河姆渡文化の遺跡
チャイナでは、三皇五帝の時代が、まさに理想国家であったのだと説かれるのですが、『契丹古伝』では、その三皇五帝は、「皆、倭種なり」と記しています。
つまり、すべて倭人であった、と記述しているわけです。
東夷とは
…夏は長江文明(Y染色体ハプロタイプO1a,O1b1)との関係が強く指摘されています。
史書では、夏の先祖を「東夷」としています。
夏の後裔は「越」です。
続く殷(商)は遼河文明(Y染色体ハプロタイプN,C2,O2a2)との関係が強く指摘されています。(遼河文明と青森県三内丸山遺跡の関係も指摘されていますが青森県には現在もハプロNが多い)
殷(姓は子)は周に滅ぼされたあと、一族の箕子は朝鮮に移ります。
三國志東夷伝では、遼河地域、満州、朝鮮半島、日本列島にまたがる地域の民族をまとめて「東夷」としています。
…周は前述のように元は炎帝と関連した民族であり、これに匈奴(Y染色体ハプロタイプQか?)や西戎(ハプロR?)が合体した部族であり、姓は姫。
中国はかつて、日本を東海姫氏国と呼んでいました。
倭人が呉(周の一族で姫姓とされる)の太白の末裔を名乗っていたとも…
…倭人を含む「東夷」の正体とは「縄文人」だったのです。
古代の遊牧民、例えば鮮卑や契丹などは縄文人の末裔だった
古代の遊牧民の国、烏丸、鮮卑、柔然、契丹、東胡は殷人の後裔であり、すなわち縄文人の末裔であり、原日本語を喋った。
この事実は契丹古伝に記載されている。https: //ameblo.jp/shimonose9m/entry-12519406748.html
3000年前、中原を占めて周王朝を樹立した漢民族から見て北狄とは縄文人と同族の殷人の末裔達であり、東夷に属する日本列島の人々と同族であった。
もちろん、朝鮮語を喋る人々(?婁やその後の靺鞨など)とか、その他の人々も存在したことは間違いない。
…⑦ 縄文人は中国大陸にも生活して、殷王朝を樹立して、漢字のルーツの甲骨文字を発明したが、秦などの末裔は結局のところ日本に渡来した
殷民族は漢民族に全く同化せず、全員、日本列島に渡来(帰化)して現在に至っている。Y-DNAハプログループD1b(旧分類D2)、縄文人と同族(参考)
②-1 殷の漢字(古代中国語)の読みを研究すると、漢字の訓読み(大和言葉)につながっていた(参考)
②-2 殷の甲骨文字には音読みと訓読みがあった(参考)