10月14日 追加しました
縄文人の聖なる数 三
縄文前期は二至の理解による遺跡の配置があった
縄文中期は二至二分の遺跡の配置から始まったが、この季節を捉える事になる一年を四つに等分すると言う発明は、聖なる数として大切にされたものだろう。
それは縄文土器の縁が四個の突起により飾られていたことからも推察できるのでは無いか。
この時期は現在よりも気温は2度程高く、大変温かで住みやすく食料も豊富だったと考えられているようだ。
しかし縄文中期半ばを過ぎる頃には寒冷化の進展により季節変化を敏感に捉えることが必要となって来た。二至二分の季節感では生活し難くなり、季節の始まりが何時からかを捉えるために四立が必要となったと考える。
こうして寒冷化に対応して生活を維持するためには、八節の暦を冬至の後、出来るだけ早期に作ることが緊急の課題となるに至る。
その切羽詰まってきた状況は様々な土偶が作られていたことからも想定できると思う。
寒冷化は更に進展して行き、こうした八節の暦を早期に作成する必要から設置された天文台が金生遺跡で有る。
この遺跡の天文観測、太陽と月の観測から直に朔旦立春が観測され、太陽暦と太陰暦の関係が理解されたものと考える。
四立を示す 聖なる数 八節 二十四節気
これにより八節の暦以上に更に季節変化を細かく捉えられる二十四節気の暦が作られたものと考える。
この関係についての理解は、何時からかは分らないものの、土器に三本指の模様が現れたことや、土器の縁に三突起を持つ土器が現れ、その突起が特別に飾られていること、こうしたことを見ると、三という数字は聖なる数として大切にされていたことによるものと考える。
追加
関東地域 山梨地域などの土器
山梨で出た土偶
私としてはこうした推測を書いているが、考古学的知見や知識は殆ど無く、単なる印象から書いているので、考古学の知見から是非検証して、縄文人の文化の歴史的進展を実証していただきたいものと考えています。
写真はお借りしました