三内丸山遺跡の巨木6本柱は岩木山を指していたという。
また、4突起口縁の土器が存在していたので、二至二分以上の暦が存在していたものと考える。
遺跡の遺物から見て、
柱の向いていた方向が冬至でも無い方向を向いているので、これまで立柱の目的についての想像は、そこで止まっているようだ。
暦が存在していれば、遺跡の位置そのものを、太陽の運行の特別な位置に、立地させることは難しいし、その位置は祭の場としては必須では無い。また暦が存在すればその立地における聖山をその目標としていることは不思議では無い。
冬至の時期はここの天候がどうなのか、晴天が続くような所として期待することは難しそうである。
暦のためにモニュメントを作る意味は無い。
阿久遺跡に見るように、縄文前期から聖なる山に向けてストーンサークルを作ることが行われていたので、祭の場として6本柱を立て、聖なる山とする岩木山に向けていることは、ごく自然なことと考える。
三内丸山の人々が祭の場を盛り上げるために6本の大木の建物を設けることは当然なことだろう。
正確な暦を持っていれば、太陽の運行に合わせた位置にモニュメントを作ることは簡単である、日の出日の入りの位置、また二至二分に拘ること無くモニュメントとなる山に向け、配石や柱を作ることは不思議では無い。
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
1-1 三内丸山遺跡の巨木6本柱と岩木山
1-1-1 大人の墓と子供の墓
大人の墓と子供の墓が別に作られているということは想像をかきたてられることだ。大人の墓は海に向かう東への広い道の両側とか、南北の道の脇に環状配石墓として発見されている。子供の墓はまとまった場所にあって住居のそばに作られている。
子供はもう一度生まれ直すよう願い、成人は、あたかも死んで葬られても、村人の労働への出発を見守る役目をしているかのようである。転生や黄泉帰りの呪術など原始人に対して抱きがちなものはなにもない。
医療の手が入らない縄文人の死は自然死であった。戦いもなかったし伝染病もなかったかもしれない。自然死は安らかで苦しみは無いという。苦しみがない死は周りの人々にも恐怖を与えないから、死者も親しみやすかった。書物のないこの時代、生きる上の知恵は老人からの伝承しかなかった。その知恵は尊ばれた。長く生きた人の墓は、必要な時にその伝承を思い出すように道端に置かれたようにみえる。中国大陸にあるシャーマン祖先崇拝はここにはない。もしあれば、死者は生活と離れた山や丘など別のところに敬って葬ったはずだ。道路脇に埋めたことは、死者がもっと身近な存在だったことを意味する。死者の弔いは宗教心の刺激にはならなかったのだと思う。
1-1-2 巨大柱建造物
直径1mもの栗の巨木が6本配列された構造物は、高さ20mにもなる建物と想像され復元されている。案内ボランティアさんは、「これは何のために作られたのでしょうか?皆さんの想像は」と問い、ある人は監視塔といい、ある人は灯台といっていた。ボランティアもそれ以上は言わなかった。
この遺跡ショップで小林達雄編著の「世界遺産縄文遺跡」をみつけて買ってきた。ここにひとつの示唆を見つけた。この6本の列柱が冬至の日没線にあっているというのだ。春分秋分の日出日没線である真東西もこの対角線上にあるという。しかしだからといってそれは何を意味するのか。自明ではない。縄文時代は農耕はまだ始まっていないから、正確なカレンダーの確定のためとは考えられない。単に冬至を記念するために巨大建造物の必要はなかった。この建造に見合うだけの人々の必死の情熱をかきたてる理由が必要だ。 中略--
グーグルマップで三内丸山の巨木構築物と岩木山を結んでみた。
見事だった。岩木山と三内丸山遺跡を結ぶ線はまさに6本柱の方向線上であった。ただし厳密には冬至の日没線ではない。現在の暦では当時から1週間程あとの日の日没線だ。つまり厳密な冬至である必要はなくむしろその頃に岩木山頂上に太陽が沈むのをモニュメントとしたのであった。
再度整理すると、巨木構築物は冬至の頃、集落から岩木山山頂に沈む太陽を拝むための施設だったのだ。集落のまわりはヒバの森林がある。今は開発が進んで森は遠くなっているが、縄文時代は森の真っただ中に集落はあった。10mをこす巨木の森林に囲まれていたはずだから、ここから岩木山を望むにはその森を越える20m級の高い望楼を作るほかないのだ。その冬至の観望は村人総出で祝ったはずだ。6本の柱間の間隔は4.2mであるから、望楼の床面積は少なくとも35平米約10坪ある。100名は十分のれる。2層なれば、村落の全住民がこの望楼に登って、岩木山にしずむ冬至の太陽を拝めた。この目的のために村民総出でおそらく世代を超えた構築作業を行なった。生活の全てをそこからいただく太陽と岩木山に熱い感謝の想いこそ縄文信仰心であろう。
また遺跡には村全体の集会に使ったような大型の建物跡が発見されている。案内ガイドさんはその大黒柱は西南の端にあると言った。その方向は岩木山をむいている。風雪で外に出られないときこの大きな建家の中で岩木山に感謝の祈りをささげたのだ。ここも村人全員が収容できる大きさだ。西の大黒柱の前には環状列石が発見されている。縄文祭祀跡なのだ。