金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

暦計算をどのようにしたのか

 

追加しました---2021.12.26

縄文時代の計算機かなと思い、これまで目に付いたものは、
北東北の縄文遺跡の遺物 3件


青森 石神遺跡 配石との関係があるのではというものがあった
配石


どのようにして使ったのか分らないが、暦の日にちを数えるなどに使ったものと想像している。
配石の一群

 

追加しました---ここには小さな小石が沢山見えていて、意図して集めていたように思う。
少し細長いものや、大きな小石もある
カレンダーの 5,7,15、30、45、91 などの数はこれらの小石で扱えたのではないか
183、182は、これではさすがに少し大きすぎるように思うものの
5,7 などの区切り、15、30 の弦、節、月は数えていたのだろう。


追加しました   2022.03.04
縄文時代の日知り、月読み

旧石器時代から大型動物を集団で狩猟する社会が芽生え、縄文時代草創期には土器作りの工程の各種専門職も始まり、縄文時代早期までには、共同体社会が成立して居たもののようなので、暦についても、日知りと月読みの専門家がいたと考えても良いのだろう。計数方法の進化と共に、暦の進化はどのように進んだのだろうか。
定住すると直ぐに、最初に二至が知られたものだろう
半年183日と182日

太陰暦 月読み
月の満ち欠けから、半年6区切り30日を数えていた 30進法

12弦の暦
潮の満ち干をもとに、15日を区切りとして数えていた
半年12の区切りと15個の石 15進法

日知り  太陽暦
二至
183日と182日を区切りとして数えていた
半年の日数を一本の棒に刻んで行く

二至二分  季節を知るため
半年91日を数えていた 91進法

四立八節の暦 季節の始まりを知るため
半年4区切り 45日を数えていた 45進法

二十四節気の暦 45日を15日の区切り 1/3として
15日を区切りとして数えていた
半年12区切りと15個の石  15進法

朔旦立春観測で二つの暦がシンクロすることを知った
日知りは七十二候のカレンダーとして
半年36区切りと5個の石 5進法

月読みは海の潮の動きから上弦と下弦を更に二分することにより
半年24区切りの暦 7個の石 7進法

石で数えるとしたらこのようなことになるのでしょうか。

ーーーーーー
この地域の遺跡では石神遺跡は次のように言われている。
前期中頃~中期中頃(約6000~4500年前)の「円筒土器文化」の段階の遺跡であるという。
 石神遺跡出土の土器は、そのほとんど全てが前期初頭から中期前半の、型式学的には「円筒土器様式」に限定される。この名称は、非常に縦に長い、筒状の胴部を持つ器形に由来し、前期初頭に出現し、円筒下層式系土器型式群は東北地方北半から北海道西南部に亘り分布した。
縄文中期にもその型式を引継ぎ、円筒上層式系土器型式群が、それ以降型式を変化させながら非常に長く続いた。
中でも円筒下層の諸型式には、極めて多様な“縄文”が施され、縄文文化1万年の内のでも、最も“縄文土器”らしい土器であるといわれている。
土器形式の変遷


このような遺跡なので、縄文文化の蓄積が行われてきたものと思うから、縄文文化の中身を覗くのに適切なのではと思う。
この遺跡からは 4波状突起口縁の土器や 8波状突起口縁土器が出ているので、二至二分の暦や八節の暦が作られていたと考える。もちろん月の満ち欠けを知る 神秘数 6 も知っていたものと考える。

写真はお借りしました

引用ーーーーーー

 旧森田村(現つがる市森田地区)に当たるこの地域では、縄文時代草創期の爪形文系土器片や、早期の貝殻文系土器片が八重菊(1)遺跡などから出土し、1万数千年前からの人々の痕跡が認められる。しかし遺構が発見されず草創期~早期のムラの姿は明瞭ではない。

 住居波状突起跡などの遺構が見つかり、ムラの姿が明らかになるのは縄文時代前期中頃、「縄文海進」のピークをやや過ぎた約6000年前以後、バケツのような形で、見たままズバリにネーミングされた前期中頃~中期中頃(約6000~4500年前)の「円筒土器文化」の段階の遺跡からである。
この段階の遺跡は、それ以前より一歩「古十三湖」寄りの低位~中位段丘上に位置する。その代表例が石神遺跡である。

 ▽石神遺跡
その南側に連続する藤山(1)遺跡と合わせ、所在地の大字を冠して「床舞(とこまい)遺跡」と呼ばれることも多く、土偶・土製品など、主に縄文時代後期~晩期(約4000~2300年前)の優れた遺物が出土する遺跡とされて、縄文時代後期の配石遺構が発見された矢伏長根(やぶしながね)遺跡などが調査された。
 ▽円筒土器の石神遺跡
 石神遺跡=円筒土器文化の代表的遺跡との図式が確立された
円筒土器が編年体系通りに古いものから新しいものまで層位的に出土し、ヤマトシジミを主体とする縄文時代前期の小規模な貝塚が発見され、遺跡北東部より住居跡も確認された。
ーーーーーー

 岩木山を間近に望む青森県石神遺跡(いしがみ)に注目する。
つがる市森田町森田月見野地籍で、岩木山北麓の狄ケ館(えぞがたて)溜池内の突出した台地上に所在し、縄文時代前期・中期に栄えた円筒(えんとう)土器文化の代表的遺跡で、各土器型式が層序的に出土した。
また一部にヤマトシジミを主体とした貝塚も見られ、このことから十三湖が遺跡付近にまで進入し、付近が潟湖あるいは河口であったことが分かった。
 石神遺跡、この地は明治時代から多量の縄文時代晩期の土器が出土することで知られていた。昭和38(1963)年、遺跡地で土取り工事が始まると、晩期の遺物包含層の下から、莫大な量の前期・中期の土器が発見された。壊されていく遺跡から、懸命に遺物を採集、丹念な復元作業を続けたのは、佐藤時雄を中心とした数人の地元の研究者達であった。
その土器は、現在、森田村の歴史民俗資料館に展示されている。総数300個体以上、国内でも最大級の一括資料である。

 石神遺跡出土の土器は、そのほとんど全てが前期初頭から中期前半の、型式学的には「円筒土器様式」に限定される。
この名称は、非常に縦に長い、筒状の胴部を持つ器形に由来し、前期初頭に出現し、円筒下層式系土器型式群は東北地方北半から北海道西南部に亘り分布した。
縄文中期にもその型式を引継ぎ、円筒上層式系土器型式群が、それ以降型式を変化させながら非常に長く続いた。
中でも円筒下層の諸型式には、極めて多様な“縄文”が施され、縄文文化1万年の内のでも、最も“縄文土器”らしい土器であるといわれている。東北南部では大木式系土器型式群(だいぎ)が前期前半に出現し、縄文中期にもそのまま連続した。


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