草創期の鏃は
早期の鏃は
このように早期に鏃の抉りが付けられるようになったのは
どう考えたら良いか
矢の棒の先端に取り付けた石鏃が、一ノ矢を放って当たり、動物が倒れたとき
矢を抜いて、次の動物を撃つため、鏃をその矢の先端に嵌め込み、再度使用しやすいように工夫したのだろうか。
中茎がある場合は不都合が有るのでは無いか。
中茎のある形は、図から見るように、旧石器以来の槍の先端の形状によく似て、それを小型化したような形になっている。
鏃に返しがある場合は、鏃が動物の体内に残り、外れて矢の棒を取りやすく、抜き取った矢に鏃を再度セットしやすいのでは無いか。二の矢のための石鏃を多数持参して、矢は再使用していたのだろう。
次の弥生時代には中茎のある鏃が使われるようになり、それは人間を対象にするものとなった。
鏃は大きくなり重くなり、戦場での矢の再使用は考えられなくなったのだろう。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
曽根遺跡は旧石器時代末(1万5千年前)から縄文時代草創期にかけての遺跡と推定され、出土品は数万点を遥かに超えている。依然として旧石器時代の石器文化が継承され、石槍としての細石器の技術も日常的に活用されていたが、石鏃にその使用が認められる弓矢が出現する。
曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイトがある。ともに産出地は限られていて、希少な石材・石器製品として交易の対象になっていた。
長野県小県郡長和町の鷹山遺跡群では、主に関東地方の平野部へ石器を運び出すため、旧石器時代より盛んに黒曜石が採取され、縄文草創期には採掘のための鉱山活動も大規模になされていた。一方鷹山川沿いに広く展開する石器製作工業団地であったといっても過言ではない。
周辺の各地にも黒曜石の貯蔵例が多く存在し、諏訪湖東岸遺跡群などにみられるように黒曜石石器の大規模な製作もなされていた。曽根遺跡に集中する大量で精巧な石鏃も、交易品として広く流通していた証である。
出土土器の型式は、草創期の土器としては爪形文土器だけであった。爪形文は半截竹管(はんせつちくかんもん)を器面に押圧し、横や斜めに密接施文する単純な文様である。爪痕に似ているため、その呼称となった。
曽根遺跡で採集された土器には、沈線文土器と無文土器が含まれていた。沈線文は半截竹管の内側で器面に平行する線を描くか、細い棒の先やへらで一本づつ線刻する。出土例では爪形文土器よりも後期になる。