金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

シュメール人の成せる画期的偉業


シュメール文化には様々な偉業が並べられているが、月の周期、メトン周期は知らなかったし、春分点をカペラで見ているなど、首をかしげざるを得ないような事績がある。
これらのことは、太陽暦の基本が分っていなかったと言うことと、太陰暦も正確では無かったこと、春分点を星座で見ていたら長期間の後には移動してしまい、正確さを欠いてしまうことまでは知らなかったものと考える。
太陽と月に関してこのようであり、もしも巷に言われているような高度な知識を星座や天文に関して、知っていたとすれば、不思議なことである。
シュメール以後のメソポタミア文明の事績が多く紛れ込んで、シュメールを幻想しているのでは無いか、占星術にしてもその気配が濃厚である。


立春・立冬と暦 四季
 西洋では春分から夏至までを春、夏至から秋分までを夏、 秋分から冬至までを秋、冬至から春分までを冬としているようです。  
 春分点は、vernal equinox、秋分点は、autumnal equinox  
 夏至点、冬至点は、Summer solstice と winter solsticeと呼んでいます。
これはシュメールと同様に基本的に、二至二分をベースにして四季を捉えているということになります。

 二十四節気では、立春から春が始まりますから暦の設計の基本が西洋では初めからかなり異なっていたと考えます。
縄文人は二十四節気の暦の前に四立という捉え方を先ず行い、それにより八節の暦が作られていたということでしょう、その時期に四季の区分が捉えられたものと考えます。
その上に更に気候を細心に捉えるため、その発展型として区分を1/3として二十四節気が出来てきたものと考えます。
ここまでの暦が出来ると月の周期と関連付けることが出来、太陰暦への繋がりが出来てきたものと思う。

シュメールでは二至二分に止まり春分を重視して、それ以上の太陽観測は行えなかったものと考える。むしろ現地に適応するのが難しい太陽観測よりも、観測しやすいというか、周囲の海の環境に応じることで、月の満ち欠けと星座に観測対象を向けたものと考える。
春分を元旦の基準として重視していたのに、それを星で見ようとしていた様子からそう判断する。

 BC331年のアレキサンダーのメソポタミア征服
        メソポタミアはギリシャの勢力範囲に入る。
BC323年のアレキサンダーのバビロンでの死後、副官セレウコスの王朝(BC306より)になると数理天文が急速な発展を遂げるという。
メソポタミアの天文学というと、すぐに紀元前3千年といわれがちであるが、実際に精密天文学発達したのはこの時代であるという。
この原因は、シュメール人の表意文字がアッカド人にも使われるなど、支配者となった後世の国々でもシュメールの文字が転用され、その後の文化がシュメール人の文化と重層して、後の歴史遺産が全てシュメール人のものとされがちとなり、混乱しているようだ。
暦 太陰暦にしても、星座体系も占星術も シュメール人の天文知識といわれているものはあまりにも拡大されすぎているようだ。
シュメールのイメージは幻想かも知れない

  縄文人については、これとは逆のことが起きているのか
漢字が殷代以後に発明されて、この時期から記録が残されるようになった。
その時代までに蓄積されてきた縄文人の知識は、漢字により記録され残されたので、
暦の知識に関しては縄文人が72節気までの開発を終わらせていたが、記録方法が無かったため、それらの業績は全て漢字文明で記録されることになり、チャイナのものとされてしまったのだろう。
しかし今それは縄文人の残した記録により、その起源が解明されたので、暦の起源は縄文人に有ったと言えるようになった。

   写真はお借りしました

引用ーーーーーー

 「古代シュメール文明」というのは、今から約5000年前にメソポタミア南部の地域に、何の先触れもなくまるで天から降ってきたかの如く突如花開いた文明です。「どこから来たのか」がさっぱり分からない古代シュメール人。世界史上、最大級のナゾといえる存在でした。

 普通は高度な文明が発展するには、未開の文明から発達していく期間があるものですが、シュメール文明は違いました。いきなり文字・文学・高度建築・法律などが完備された文明が現れたのです。

 シュメール文明は現代につながる多くの文化的遺産を遺しました。1週間が7日なのも 1分が60秒なのも シュメール文明が発祥です。

 (シュメール以外の)その頃の人類は、言語も持たず原始的な生活をしていましたが、シュメールの人々は高度な医学技術、法体制、天体知識などを持っていました。シュメール文明は人類最古の文明とされました。

 シュメール文明は現代につながる多くの文化的遺産を遺しました。高度な都市群やジッグラトなどの高層建築や神殿の数々、潅漑農業による大麦や小麦の栽培と収穫、パンやビールなどの発酵食料や飲料、そして、冶金や車輪などの技術、それらの基礎となる60進法の数学や楔型文字、さらには、天文学や太陰暦などの出現もそうです。

シュメール人の成せる画期的偉業

 シュメール人の天文学知識は、現代天文学の視点から見てもきわめて正確でした。彼らの残した粘土板には、当時の人々が知る由もない太陽までの距離ばかりか、その配列、軌道、相対的な大きさが書かれており、地球から43億キロ以上も離れている海王星の性質やその色についてまでもが細かに記されていました。天文学では、地球は太陽のまわりを周ることや、日食、月、惑星の動きを予想する数式を理解していました。シュメールの人々が使っていた暦には、日食や月食や太陽系の惑星の動きを正確に把握していて、地球の地軸が2万5920年かかり円を描くように振れるという歳差運動(さいさうんどう)の周期まで理解していました。
ーーーーーー

迷信「シュメール人の高度天文知識説」

 日本の天文関係で語られる根拠のない迷信には「星座の起源・カルデアの羊飼い説」の他に「シュメール人は高度な天文知識を持っていた。」という迷信がある。

 シュメールの時代に書かれた粘土盤(タブレット)からは天文に関する記録は見つかっていない。シュメールの時代の天文タブレットがないにもかかわらず星座の起源をシュメールとするのは、後の時代に書かれた天文タブレットがシュメール語(表意文字)とアッカド語(表音文字)の混在の文章で書かれており、星座名にシュメール語(表意文字)が用いられているためである。これは日本語で書くとき星座名を漢字で表記する場合と同じである。したがってシュメール時代の天文知識の程度を知る根拠となる記録は無い。

 ではなぜ日本では「シュメール人が高度な天文知識を持っていた。」とされるのか?
 不思議ではあるが、この伝説も「カルデアの羊飼い伝説」と根は同じで起源は明治のカルデア伝説にある。以下の旧制中学の教科書の「カルデアの天文」の記述をシュメールに読み替えると「シュメール人の高度天文知識説」になる。野尻抱影と同じく、明治時代のカルデア人伝説をシュメール人に読み替えた人がいて伝承したことになる。

 ちなみにここで書かれているカルデアの天文はギリシャ人が伝えた紀元前数世紀のカルデア人の天文である。欧米の知識層ではO.Neugebauerの「The exact sciences in Antiqyity」(1969,1957初版)p.101-102などにより、バビロニアで数理天文学が発達したのはBC2,3千年の古代では無く、ギリシャ人がカルデア人と呼んでいた新バビロニア王朝(カルディア王国)より新しいBC5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からで、さらに発達したのがアレキサンダーのメソポタミア征服後のセレウコス朝時代(BC306~)であったことが1950年代には常識になった。しかし日本では、明治時代の「羊飼い物語」と同じく「カルデアの天文」を「シュメールの天文」に呼び替えただけの話が残ってしまった。最近はそれにとんでも科学が尾ひれをつけている。


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