旧石器時代後期に狩猟での食糧確保が難しくなり、植物性食糧の確保を始めた。
その一つとしてマメ類の採集を始めて、
細かいマメ類の種を漏らすこと無く集めるために、容器として編み籠から無文土器を開発した。
野原からマメ類の種を採集するだけでなく、種を播いて、上手く収穫することが出来ることがわかり、豆粒文土器に記録供献 祝祭をした。
栽培は季節に合わせて行うために太陽暦を開発した。
マメ類の栽培から、ダイズ、アズキ、ヒエ 穀類などの大きな種を作る栽培種が成立して農耕を確立した。
この時期から土器の模様は大きく変化して縄文模様の無いものになった 諸磯式、勝坂式土器の時期。それは狩猟により得る食べ物が、ダイズなど豆類の農耕が確立することで、必須食料としなくても良くなったことである。
その後太陽暦は二十四節気の暦を造り、太陰暦とシンクロさせ、暦の正確さを維持する為、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設を造った。
縄文時代の特徴は、マメ類の細かい種を採集するため、土器が新石器時代の初めから造られていたので、粘土で造形する土器を記録媒体として、生業開発の経緯を全て記録して残していたことである。これにより縄文時代の歴史を大筋でたどることが出来、それは世界の文明史の起源の記録である。
金生遺跡の観測施設は現在の太陽暦と変わりない正確さを今も維持している。
縄文時代は文明の起源である 新石器時代の生業開発の歴史は記録されていた。
図はお借りしました