縄文土器に神秘数 3 は、波状突起口縁の土器以外にも
土器の文様として描かれ -浮彫 造形- されたり、土偶に手の形に造形されたり、と様々に表現されていた。
ところで鼎とは何でしょうか
鬲は 3 突起を持つ土器 - 3足の土器- のことのようです。
殷の鼎は 4の足を持つ青銅器が主流のように思っていました
后母戊大方鼎
しかし調べてみたところ鼎とは 3足の鍋ということが元々の意味であるようです。
何故それが 3足の鼎となって、帝位を示すものとなったのか
下に引用したその説明は、とても理解出来るものではありません。
元々は縄文時代の神秘数 3がその発祥であると言うことでは無いでしょうか。
元々の意味は太陽と月という二つの天体の運動を繋ぐことの出来る 神秘数 3 からだったのでは無いか。
しかしその意味が伝聞となって変化し、本質は不明となり、とにかく貴重なものであるとして伝わっていたのでは無いか。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
鼎(かなえ)とはその多くが3本の脚を持つ器のこと(4本脚のものもあるけれど)。
太古の時代に狩猟や農耕で得た食料を煮炊きする土器として出現したものだそうですが、宗廟において祖先神を祀る際に生贄の肉を煮るために用いられたことから礼器の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられたといいます。
ーーーーー引用終わり
このような説明は起源としては妥当性が無いと思う。
3の起源は縄文時代の 3波状突起口縁の土器にあり、それは神秘数 3の由来にあるものと考える。
引用ーーーーーーーーーーーーーー
鼎(かなえ)とはその多くが3本の脚を持つ器のこと(4本脚のものもあるけれど)。
太古の時代に狩猟や農耕で得た食料を煮炊きする土器として出現したものだそうですが、宗廟において祖先神を祀る際に生贄の肉を煮るために用いられたことから礼器の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられたといいます。
今日では、鼎と言えば多くは法具、あるいは床の間の置物などとして用いられているようですが、3本の脚で器部分を支える構造から座り(安定)が良く、そうしたことから、鼎という文字も、安定感のあるものの例えとして使われます。また、司法・立法・行政…など三本柱のものを表す場合にも鼎立などという言い方で用いられます。
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殷(いん)・西周(せいしゅう)の青銅器は中国美術の精髄の一つといっても過言ではありません。特に殷時代後期(前14世紀~前11世紀頃)の青銅器は世界に冠たる圧倒的な水準を示すものとなっています。本例も殷時代末頃に位置づけられる鼎(てい)と呼ばれる青銅器の一つです。鼎は、肉類を煮るための煮食器で、底部に三足を有し、上部には一対の持ち手がある器形です。やや小振りですが均整のとれた美しい姿の優品です。口縁沿いにはいわゆる饕餮文(とうてつもん)と呼ばれる力強い獣面が表されています。饕餮とは伝説で語られる欲深い悪神の名前です。青銅器等に表される目と角とを強調した獣面文様を饕餮文と呼んでいます。しかし、実際にはこの獣面文様が饕餮を表した文様かどうかはわかっていません。一説には、殷人たちの信仰していた至高神「帝(てい)」の姿を表現したものともいわれています。
殷周青銅器は、その大半が祭祀饗宴(さいしきょうえん)に用いられた彝器(いき)とよばれる飲食器や楽器で、支配者が祖霊祭祀(それいさいし)などの宗教儀礼に使用して共同体の結束を固める行事や賓客(ひんきゃく)をもてなす際に用いられた重要な道具でした。本例のような鼎は、宗廟(そうびょう)に置かれた祖霊祭祀の器の中で最も重視された器種なのです。
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鼎(かなえ)とは三つの足と二つの耳をつけた金属製の釜のことで、
古代の中国では料理はもちろん、表彰の具、釜ゆでの刑具などとして用いた。
周(しゅう)の定(てい)王元年(前606年)のことである。
楚(そ)の荘(そう)王は春秋の五覇の一人に数えられる(五覇に入れない説
もある)ほどの実力者であった。この年の春、荘王は陸渾(りくこん)
の戎(じゅう)を討伐してから、洛水(らくすい)のほとりに出た。
洛水の北には周の都洛陽がある。荘王は周の国境に大軍をおいて、
周王の出方いかんでは攻撃しかねない勢いを示した。周の定王は
楚のデモンストレーションに驚き、大夫の王孫満(おうそんまん)を
やって荘王の労を厚くねぎらった。
この時荘王は、歴代の王朝に継承され、今は周の王室に代々伝わ
る「鼎」とはどんなものか、かねてから知りたかったので、その「鼎
の大小軽重」について聞いた。
この質問を受けて、王孫満は鼎の由来から説き起こした。
そもそも鼎は夏(か)王朝の祖・禹(う)が、九州(昔の中国は全土を
九つに分けていた)の長に命じて銅(原文では金)を献上させ、これ
を用いて鋳(い)させたものである。鼎の表面には万物の形を図に
してあり、人民に怪物の存在を教えたから、人民は安心してどんな
山や川へも入って、生業に励むことができた。
しかし、夏の桀(けつ)王の世に鼎は殷(いん)に移り、殷の紂(ちゅう)
王の時に周に移った。周の成(せい)王(第二代)は鼎を郊O(こうじょく:
洛陽、O=辱におおざと)において、ここを王都と定めた。以後定王
至るまで三十代、七百年間継承されてきたと述べ、最後に王孫満は
強調した。
「鼎の軽重が問題なのでありません。徳があるかないかこそが問題
なのです。鼎は常に徳のあるところに移ってきました。いま周の徳
は衰えたといっても、今日まで鼎を伝えてきたことは天の命ずる
ところでありまして、天命がすでに革(あらた)まったとは思われま
せん。したがって鼎の軽重など訊ねられるいわれはございません」。
春秋時代はまだ周王の体面が保てた時代であった。荘王も力づくで
周を攻めることもできなかったので、やむなく兵を引き揚げることにした。
この説話は「春秋左氏伝」によるものだが、「鼎の軽重を問う」ことは、
帝位を狙う下心のあることを意味する。鼎の由来にあるとおり、それ
は帝位の象徴だったからである。
そしてこれから転じて、この言葉は「相手の実力や内情を見すかして、
その弱みにつけ入る」という意味に用いられるようになった。
この話は「史記」によると、荘王が「人をして九鼎(きゅうてい)を問わし
む」となっているが、「九鼎」は中国全土九州になぞらえた言い方である。
また、周室の廟(びょう)の「大呂(たいりょ):大鐘」と結んで、「九鼎大呂」
という言葉もある。
いぜれも「伝来の宝」、「王位」、「重々しいもの」の意に用いられる。
「戦国策」の東周篇に、周王の臣・顔率(がんそつ)が、「昔、周は殷を
討って、九鼎を得たが、一鼎を九万人で引っ張ってきた。九鼎を移す
には、八十一万人もの人手が要りますぞ」、と
言って斉(せい)王を煙に巻いてしまうところが見える。
ともあれその行方は周の滅亡(前249年)にあたって、秦に運ばれる
途中、泗水(しすい)に沈んだと伝えられるが、はっきりとしたことはわか
らない。