北の《ハラフ/ハラフィアン文化》から南の《ウバイド文化》へ
土器・陶器が発達した北メソポタミアの《ハラフ文化》
先史時代紀元前6,000年~紀元前5,400年頃に北東シリアのテル・ハラフを中心に北メソポタミア、シリア、アナトリア、現トルコとシリアの国境周辺の「肥沃な三日月地帯」北部で始まり広がった有土器新石器時代です。と言われている。
メソポタミアでの土器使用開始はハラフ文化からとされていたが、それ以前にハッスーナ文化が存在していたようだ。
プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。
プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーナ文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIからはこうした土器を焼成したと考えられる2室構造の垂直焔式土器焼成窯が複数発見されている。これは現在のところ世界最古の土器焼成窯であり、西アジアでは土器を本格的に作り始めてからわずか数百年後には、土器を専用に焼くための窯をつくりだしたのであった。という
これに続くのがハラフ文化の土器使用開始新石器時代になり、それはメソポタミア北部に広範囲に広がっていたようだ、それからウバイド文化が発展する、それに続いて都市文化のシュメール文明となる。
メソポタミア南部の灌漑農耕開始
サマッラ文化
サマッラ文化の人びとはハラフ文化が現れる直前から「中部メソポタミア沖積地の開発に取り組んでいた」(p93)。特徴は以下の通り。
サマッラ文化の担い手は、北メソポタミアでハッスーナ文化が盛行していた頃中部メソポタミアの沖積平野を開発し始めた農耕民で、その後北方にハラフ文化が興ってきてからも中部メソポタミアを中心に暫くの間独自の文化的伝統を守って生活していた。
彼らは農耕に人工的な灌漑を本格的に導入した最初の人々であったが、そこでは規則性の著しい定型的な建物がつくられていた。集落の建設はかなりの計画性をもっておこなわれ、共同体規模での協業的な作業も存在した。こうしたサマッラ文化の特質の多くは、続くウバイド文化に取り込まれ、ウバイド文化の基本的要素となっていく。このように云われている。
灌漑農耕はサマッラ文化から始まり、ウバイドに受け継がれ、さらにシュメール文明に発展したものと思う。
灌漑農耕はメソポタミア北部で行われていた雨期に合わせた播種を行う農耕であったものと推定する。
そこに春分の知識を持った知識人が現れ、季節に合わせた播種を行うことで、それまでの農耕収穫量を飛躍的に増大させることが出来ることになり、それまでのウバイド文化の村落程度の町から、都市文明のシュメール文明が展開することになったのだろう。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
ハッスーナ文化、サマッラ文化、ジャルモ文化、ハラフ文化 bc7000年紀末-bc6000年紀前半
ウバイド文化期 bc5000-bc3500
ウルク都市期 bc3500-bc3100
ジュムデト・ナスル期 bc3100-bc2900
初期王朝時代 bc2900-bc2335
アッカド王朝時代 bc2334-bc2154
ウル第三王朝時代 bc2112-bc2004
古バビロニア時代 bc2004-bc1595 古アッシリア時代 bc2000-bc1600
古アッシリア時代 bc2000-bc1600
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ハッスーナ文化、サマッラ文化、ジャルモ文化、ハラフ文化 bc7000年紀末-bc6000年紀前半
日本でいうところの縄文時代に当たる。先史時代に興った諸文化であり、名前はそれぞれメソポタミアの南部の痕跡が見つかった遺跡の名前である。
シュメルに直接連続していると思われるサマッラ文化期の地においては既に灌漑設備が発見されている。こうした設備によって乾燥地帯でも安定して機能し大麦の栽培などが行われ、また大事業であるため特定の箇所に人々が集まった。これが続くウバイド文化期への布石となっており、ウバイド文化の成立には大規模な事業によって集められた人々が一役買っているのだと推測されている。
ハッスーナ文化やサマッラ文化やハラフ文化などはほとんど分かっておらず、遺跡と美術品などから判断するしかない。もし興味があるのであれば博物館のHPなどで検索していただくと詳しい解説が載っているのでお勧めだ。というかネットにはそれ以外に情報がほぼない。文字資料がない時代のことはやはりよく分からないが、更なる発掘を期待したい。
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ハッスーナ文化
ハッスーナ文化は、『西アジアの考古学』では、プレ・ハッスーナ期と狭義のハッスーナ期に分けられる。
プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。PPNB期に見られるような計画性のある住居配置は見られない*2 (狭義のハッスーナ期の住居や文化がどのようなものかは書いていなかった)。
続いて狭義のハッスーナ期の土器についての話。
プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーナ文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIからはこうした土器を焼成したと考えられる2室構造の垂直焔式土器焼成窯が複数発見されている。これは現在のところ世界最古の土器焼成窯であり、西アジアでは土器を本格的に作り始めてからわずか数百年後には、土器を専用に焼くための窯をつくりだしたのであった。
1万年近く継続した縄文土器がその全期間を通じて野焼きされていたことを考えると、その違いは驚愕に値する。というのも、民族例などを見ても、土器焼成窯をもっていて専業的な土器生産をおこなっている例を筆者は寡聞にして知らず、土器作りに専用の窯を用いることは、土器生産の専業化がかなり進んでいたことを意味すると思われるからである(常木1997)。同じヤリム・テペIからは銅冶金をしたのではなかと想定される資料も出てきており、ハッスーナ文化のパイロテクノロジーは相当進んだ段階に達していた可能性が高い。
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メソポタミア南部、シュメール地域にはじめて文化の灯がともされたのは、紀元前6千年紀後半のことです。
ウバイド文化と呼ばれたこの文化では灌測農業が行われ、石器のほかに土器や銅器なども用いられました。
それ以前、メソポタミア北部には紀直前6千年紀前半からハッスーナ文化が芽生えており、その後サマラ文化、ハラフ文化へと移り変わっていきます。
しかし、やがてこのウバイド文化に飲み込まれていきます。
このウバイド文化を受け継いで、紀元前3500年頃にはウルク文化が形成されます。
ウルク文化においてなされたもっとも偉大な出来事は、文字の発明だといえるでしょう。
ウルク遺跡からは、紀元前3100年頃のものとされる、世界最古の絵文字を刻んだ粘土版が出土しています。
また文字の誕生と前後して、このウルクを筆頭に、村落は相次いで都市化の様相を呈するようになります。
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紀元前6000年 メソポタミア ハラフ文化
シリアのトルコ国境に近いメソポタミア北部にある遺跡。ユーフラテス川に注ぐハーブール川が、平原で大きく北東に湾曲した所に位置する。紀元前5000年と想定される先史時代とアッシリア時代の遺跡で、先史時代はアルパチア、テペ・ガウラなどとともにハラフ期という文化期が設定されている。精巧につくられた彩文土器は、粘土を水漉(みずこ)しし、よく磨研され、化粧土もかけられている。彩文は動物文、幾何学文、人物文が描かれ、器形も種類が多い。装身具も発達し、スタンプ印章も金属器もつくられている。アッシリア時代のものは神殿、大宮殿の遺跡で、内部にはサソリなどの浮彫りがなされている。宮殿の南方には南城門があり、これらは前11世紀ころのアラム王国の宮殿であったことが知られている。
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サマッラ文化
サマッラ文化の人びとはハラフ文化が現れる直前から「中部メソポタミア沖積地の開発に取り組んでいた」(p93)。特徴は以下の通り。
サマッラ文化の担い手は、北メソポタミアでハッスーナ文化が盛行していた頃中部メソポタミアの沖積平野を開発し始めた農耕民で、その後北方にハラフ文化が興ってきてからも中部メソポタミアを中心に暫くの間独自の文化的伝統を守って生活していた。彼らは農耕に人工的な灌漑を本格的に導入した最初の人々であったが、そこでは規則性の著しい定型的な建物がつくられていた。集落の建設はかなりの計画性をもっておこなわれ、共同体規模での協業的な作業も存在した。こうしたサマッラ文化の特質の多くは、続くウバイド文化に取り込まれ、ウバイド文化の基本的要素となっていく。
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メソポタミア南部、シュメール地域にはじめて文化の灯がともされたのは、紀元前6千年紀後半のことです。
ウバイド文化と呼ばれたこの文化では灌測農業が行われ、石器のほかに土器や銅器なども用いられました。
それ以前、メソポタミア北部には紀直前6千年紀前半からハッスーナ文化が芽生えており、その後サマラ文化、ハラフ文化へと移り変わっていきます。
しかし、やがてこのウバイド文化に飲み込まれていきます。
このウバイド文化を受け継いで、紀元前3500年頃にはウルク文化が形成されます。
ウルク文化においてなされたもっとも偉大な出来事は、文字の発明だといえるでしょう。
ウルク遺跡からは、紀元前3100年頃のものとされる、世界最古の絵文字を刻んだ粘土版が出土しています。
また文字の誕生と前後して、このウルクを筆頭に、村落は相次いで都市化の様相を呈するようになります。