況ンやまた仏二十年の福分を以て末法の我等に施す。是レに因ツて天下の叢林、人天ノ供養絶エず。如来神通の福徳自在なる、なほ馬麦を食して夏を過ゴしましましき。末法の弟子豈是レを慕ハざらんや。
『正法眼蔵随聞記』巻2-13
道元禅師は、修行者に対し、貧に徹しても決して不安に思うことはないと示されています。貧に徹しても、飢え死にすることはないというのです。その理由は、釈尊の「二十年の福分」があるからです。
この言葉ですが、釈尊の時代、仏教的世界観では、人間の寿命は100年あると考えられていました。しかし、釈尊ご自身は80歳で般涅槃されており、その時本来残っていたはずの20年分の寿命は、後の仏教徒である我々に対し、布施されたというのです。
よって、その釈尊の貴い行により、我々が飢えることなどはないと、道元禅師は確信を持って仰っているのです。
『正法眼蔵随聞記』巻2-13
道元禅師は、修行者に対し、貧に徹しても決して不安に思うことはないと示されています。貧に徹しても、飢え死にすることはないというのです。その理由は、釈尊の「二十年の福分」があるからです。
この言葉ですが、釈尊の時代、仏教的世界観では、人間の寿命は100年あると考えられていました。しかし、釈尊ご自身は80歳で般涅槃されており、その時本来残っていたはずの20年分の寿命は、後の仏教徒である我々に対し、布施されたというのです。
よって、その釈尊の貴い行により、我々が飢えることなどはないと、道元禅師は確信を持って仰っているのです。