示ニ云ク、昔、智覚禅師と云ツし人の発心出家の事、こノ師は初メは官人なり。富に誇るに正直ノ賢人なり。有ル時、国司たりし時、官銭を盗ンで施行す。旁ノ人、是レを官奏す。帝、聴イて大イに驚き恠しむ。諸臣皆恠シむ。罪過已に軽カラず。死罪に行なはるべしと定マりぬ。
爰に帝、議して云ク、「こノ臣は才人なり、賢者なり。今ことさらこノ罪を犯す、若シ深キ心有ランか。若シ頚を斬ラン時、悲シミ愁たる気色有ラば、速ヤカに斬ルベシ。若シその気色無クんば、定めて深キ心有り。斬ルベカラず。」
勅使ひきさりて斬ラント欲スル時、少シも愁の気色無し。返りて喜ぶ気色あり。
自ラ云ク、「今生の命は一切衆生に施ス。」と。
使、驚き恠シンで返り奏聞す。
帝云ク、「然り。定メて深キ心有らん。こノ事有るべしと兼ネて是レを知れり。」ト。仍ツてその故を問フ。
師云ク、「官を辞して命を捨て、施を行じて衆生に縁を結び、生を仏家に稟けて一向ニ仏道を行ぜんと思フ。」と。
帝、是レを感じて許して出家せしむ。仍ツテ延寿と名を賜ヒき。殺スベキを、是を留むる故なり。
今の衲子も是レほどの心を一度発すべきなり。命を軽くし生を憐レむ心深くして、身を仏制に任せんと思ふ心を発すべし。若シ前よりこノ心一念も有らば、失はじと保つべし。これほどの心一度発サずして、仏法ヲ悟る事はあるべからず。
『正法眼蔵随聞記』巻2-9
これは、永明延寿という人の出家の様子を示しています。このように、中国の官僚は、士大夫という、一種のパワーエリートでしたが、彼らは自らをなげうって出家するという、一種の厭世観を持ちながら人生を生きていました。
この延寿もまた、官僚として生きながら、何かの機会に出家しようと考えていました。そこで、国のお金に手を着けて、その横領したお金を、他人に施していました。当然、当時の皇帝はそれを罰しようとしますが、皇帝も名君であり、これには何か「裏がある」と思っていました。そして、延寿の様子を見ながら、死罪にするかどうかを決めようとしたのです。
結果、延寿には出家したいという想いがあることが分かり、皇帝はその罪を許して、出家する際に「延寿」という名前まで与えたのです。その時の延寿の言葉、「今生の命は一切衆生に施ス。」というのは良いですね。まさに、これこそ捨身供養の理想です。
そして、実際に僧侶として、一切の衆生に対し捨身したのです。我々も、そのように捨身をしながら生きています。何か、悩み事などがあれば、特に、「自我」から来ているものだと判断されれば、我々にはその解決法を提示することが可能です。ご遠慮なく、ご相談下さい。
【お知らせ】
曹洞宗・満福山城国寺では、12月31日午後10時から「除夜の鐘」をつくことが出来ます。希望される方は、当日当山までお越し下さい。
場所:宮城県栗原市花山草木沢宿34番地
アクセス:東北自動車道築館インターから西に40分
東北新幹線くりこま高原駅から西に1時間
爰に帝、議して云ク、「こノ臣は才人なり、賢者なり。今ことさらこノ罪を犯す、若シ深キ心有ランか。若シ頚を斬ラン時、悲シミ愁たる気色有ラば、速ヤカに斬ルベシ。若シその気色無クんば、定めて深キ心有り。斬ルベカラず。」
勅使ひきさりて斬ラント欲スル時、少シも愁の気色無し。返りて喜ぶ気色あり。
自ラ云ク、「今生の命は一切衆生に施ス。」と。
使、驚き恠シンで返り奏聞す。
帝云ク、「然り。定メて深キ心有らん。こノ事有るべしと兼ネて是レを知れり。」ト。仍ツてその故を問フ。
師云ク、「官を辞して命を捨て、施を行じて衆生に縁を結び、生を仏家に稟けて一向ニ仏道を行ぜんと思フ。」と。
帝、是レを感じて許して出家せしむ。仍ツテ延寿と名を賜ヒき。殺スベキを、是を留むる故なり。
今の衲子も是レほどの心を一度発すべきなり。命を軽くし生を憐レむ心深くして、身を仏制に任せんと思ふ心を発すべし。若シ前よりこノ心一念も有らば、失はじと保つべし。これほどの心一度発サずして、仏法ヲ悟る事はあるべからず。
『正法眼蔵随聞記』巻2-9
これは、永明延寿という人の出家の様子を示しています。このように、中国の官僚は、士大夫という、一種のパワーエリートでしたが、彼らは自らをなげうって出家するという、一種の厭世観を持ちながら人生を生きていました。
この延寿もまた、官僚として生きながら、何かの機会に出家しようと考えていました。そこで、国のお金に手を着けて、その横領したお金を、他人に施していました。当然、当時の皇帝はそれを罰しようとしますが、皇帝も名君であり、これには何か「裏がある」と思っていました。そして、延寿の様子を見ながら、死罪にするかどうかを決めようとしたのです。
結果、延寿には出家したいという想いがあることが分かり、皇帝はその罪を許して、出家する際に「延寿」という名前まで与えたのです。その時の延寿の言葉、「今生の命は一切衆生に施ス。」というのは良いですね。まさに、これこそ捨身供養の理想です。
そして、実際に僧侶として、一切の衆生に対し捨身したのです。我々も、そのように捨身をしながら生きています。何か、悩み事などがあれば、特に、「自我」から来ているものだと判断されれば、我々にはその解決法を提示することが可能です。ご遠慮なく、ご相談下さい。
【お知らせ】
曹洞宗・満福山城国寺では、12月31日午後10時から「除夜の鐘」をつくことが出来ます。希望される方は、当日当山までお越し下さい。
場所:宮城県栗原市花山草木沢宿34番地
アクセス:東北自動車道築館インターから西に40分
東北新幹線くりこま高原駅から西に1時間
示ニ云ク、無常迅速なり、生死事大なり。暫ク存命の間、業を修し学を好マンには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。
文筆詩歌等そノ詮なきなり。捨ツべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなほ多般を兼ネ学すべからず。況ンや教家の顕密の聖教、一向に擱くべきなり。仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。
一事ヲ専ラにせん、鈍根劣器のものかなふべからず。況ンや多事を兼ネて心想を調へざらん、不可なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-8
道元禅師が、仏道以外の、文章や詩歌、そういった文化的なことを学ぶのが無駄だと示された一節です。非常に有名で、後々まで、曹洞宗の僧侶が、文化的芸術作品などを作るのに躊躇することとなりました。
しかし、道元禅師がこのように示されたことには明確な理由があります。それは、人間の寿命などいつ終わるか分かったものではないので、その前に、一刻も早く仏道を学んでおくべきだという意見があるということ、そして、もう一つは、人間の能力など、そんなに多くのことを極めることは出来ず、いわば才能のリソースを、仏道以外に差し向けてはいられない、という意見です。
どちらとも、まさにいわれる通りですね。
文筆詩歌等そノ詮なきなり。捨ツべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなほ多般を兼ネ学すべからず。況ンや教家の顕密の聖教、一向に擱くべきなり。仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。
一事ヲ専ラにせん、鈍根劣器のものかなふべからず。況ンや多事を兼ネて心想を調へざらん、不可なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-8
道元禅師が、仏道以外の、文章や詩歌、そういった文化的なことを学ぶのが無駄だと示された一節です。非常に有名で、後々まで、曹洞宗の僧侶が、文化的芸術作品などを作るのに躊躇することとなりました。
しかし、道元禅師がこのように示されたことには明確な理由があります。それは、人間の寿命などいつ終わるか分かったものではないので、その前に、一刻も早く仏道を学んでおくべきだという意見があるということ、そして、もう一つは、人間の能力など、そんなに多くのことを極めることは出来ず、いわば才能のリソースを、仏道以外に差し向けてはいられない、という意見です。
どちらとも、まさにいわれる通りですね。
法談の次に示して云ク、直饒我レ道理を以て道ふに、人僻事を言フを、理を攻めて言ヒ勝ツは悪きなり。
次に、我れは現に道理と思へども、「我が非にこそ。」と言ツて負けてのくもあしばやなると言フなり。
ただ人をも言ヒ折らず、我が僻事にも謂ヒおほせず、無為にして止めるが好キなり。耳に聴キ入レぬようにて忘るれば、人も忘れて怒らざるなり。第一の用心なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-7
道元禅師は、余計な議論を持って、相手に勝つことを良しとはしていません。なぜならば、自分にとっての正義が、相手にとっての正義であるとは限らず、正義にとっての対は相手の正義でしかないのです。
だからこそ、議論をして勝っても、それは良いことにはならないわけです。むしろ、自分が正しいと思っていても、いや、思っているからこそ、自分はソッと身を引くべきなのです。
それで、相手が増長すると思っている人も多いと思いますが、道理が契っていれば、むしろそれで良いのです。或いは道理に契わずに好き勝手言っている人は、自壊するのみです。
ですので、忘れて怒らず、その思いが大切です。
次に、我れは現に道理と思へども、「我が非にこそ。」と言ツて負けてのくもあしばやなると言フなり。
ただ人をも言ヒ折らず、我が僻事にも謂ヒおほせず、無為にして止めるが好キなり。耳に聴キ入レぬようにて忘るれば、人も忘れて怒らざるなり。第一の用心なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-7
道元禅師は、余計な議論を持って、相手に勝つことを良しとはしていません。なぜならば、自分にとっての正義が、相手にとっての正義であるとは限らず、正義にとっての対は相手の正義でしかないのです。
だからこそ、議論をして勝っても、それは良いことにはならないわけです。むしろ、自分が正しいと思っていても、いや、思っているからこそ、自分はソッと身を引くべきなのです。
それで、相手が増長すると思っている人も多いと思いますが、道理が契っていれば、むしろそれで良いのです。或いは道理に契わずに好き勝手言っている人は、自壊するのみです。
ですので、忘れて怒らず、その思いが大切です。
夜話ニ云ク、昔、魯の仲連と云フ将軍ありて、平原君が国に有ツて能く朝敵を平ラぐ。平原君賞して数多の金銀等を与へしかば、魯の仲連辞して云ク、「ただ将軍の道なれば敵を討つ能を成す已而。賞を得て物を取ラんとにはあらず。」と謂ツて、敢て取ラずと言フ。魯仲連ガ廉直とて名よの事なり。
俗なほ賢なるは、我レそノ人としてそノ道の能を成すばかりなり。代りを得んと思ハず。学人の用心も是ノごとクなるべし。仏道に入リては仏道のために諸事を行じて、代リに所得あらんと思フべかラず。内外の諸教に、皆無所得なれとのみ進むるなり。心を取ル。
『正法眼蔵随聞記』巻2-7
中国の戦国時代に生きた、魯の仲連の故事を道元禅師は高く評価されます。この者は後の始皇帝を出す秦が攻めていた趙を守ったにもかかわらず、その恩賞を一切取ろうとしませんでした。そして、そのように恩賞を取るのは、商売人の振る舞いであるとしています。
同じように道元禅師も、自らの職責をよく知るべきだと説くのです。そして、仏道修行者であれば、一切の褒賞や、功徳を期待せずに、自らの行うべきを行うことを説くのです。
このような修行を、「不染汚の修証」とか「無所得、無所悟」などといいます。世間に生きている場合には、どうしても、所得を目指して生きてしまいます。そして、それで良いのですが、度が過ぎると、仕事の目的が歪んでしまいます。何事もホドホドに。
俗なほ賢なるは、我レそノ人としてそノ道の能を成すばかりなり。代りを得んと思ハず。学人の用心も是ノごとクなるべし。仏道に入リては仏道のために諸事を行じて、代リに所得あらんと思フべかラず。内外の諸教に、皆無所得なれとのみ進むるなり。心を取ル。
『正法眼蔵随聞記』巻2-7
中国の戦国時代に生きた、魯の仲連の故事を道元禅師は高く評価されます。この者は後の始皇帝を出す秦が攻めていた趙を守ったにもかかわらず、その恩賞を一切取ろうとしませんでした。そして、そのように恩賞を取るのは、商売人の振る舞いであるとしています。
同じように道元禅師も、自らの職責をよく知るべきだと説くのです。そして、仏道修行者であれば、一切の褒賞や、功徳を期待せずに、自らの行うべきを行うことを説くのです。
このような修行を、「不染汚の修証」とか「無所得、無所悟」などといいます。世間に生きている場合には、どうしても、所得を目指して生きてしまいます。そして、それで良いのですが、度が過ぎると、仕事の目的が歪んでしまいます。何事もホドホドに。
また物語ニ云ク、故鎌倉の右大将、始め兵衛佐にて有リし時、内府の辺に一日はれの会に出仕の時、一人の不当人在りき。
そノ時、大納言のおほせて云ク、「是レを制すべし。」
(大)将の云ク、「六波羅におほせらるべし。平家の将軍なり。」
大納言の云ク、「近々なれば。」
大将の云ク、「その人にあらず。」と。
是れ美言なり。この心にて、後に世をも治めたりしなり。今の学人もその心あるべし。そノ人にあらずして人を呵する事なかれ。
『正法眼蔵随聞記』巻2-6
この鎌倉の右大将とは、後の源頼朝のことであります。或るハレの宴があったとき、狼藉者がいたそうです。そこで、大納言が右大将に対し、この者を捕らえるように命じました。
ところが、右大将は六波羅に対して、それを頼むように諭し、「そなたがそこにいるではないか」と頼む大納言に対し、「その人にあらず」と固辞します。それは、右大将とは将の将であって、自ら手を下す地位・役割ではないからです。
このように、仏道修行でも、自分がその地位・役割にないのであれば、徒に他人に対して叱るべきではないと道元禅師は示されます。「他は是れ吾に非ず」(『典座教訓』)などの言葉で、どうしても自分で事を為すのが良いという「美風」がいわれますが、道元禅師ほど「役割」などを強調した人はいません。
一例として、次の言葉も紹介しておきましょう。
如し大己の所に在らば苦事は先ず作せ、好事は応に大己に譲るべし。
『対大己五夏闍黎法』第30
そノ時、大納言のおほせて云ク、「是レを制すべし。」
(大)将の云ク、「六波羅におほせらるべし。平家の将軍なり。」
大納言の云ク、「近々なれば。」
大将の云ク、「その人にあらず。」と。
是れ美言なり。この心にて、後に世をも治めたりしなり。今の学人もその心あるべし。そノ人にあらずして人を呵する事なかれ。
『正法眼蔵随聞記』巻2-6
この鎌倉の右大将とは、後の源頼朝のことであります。或るハレの宴があったとき、狼藉者がいたそうです。そこで、大納言が右大将に対し、この者を捕らえるように命じました。
ところが、右大将は六波羅に対して、それを頼むように諭し、「そなたがそこにいるではないか」と頼む大納言に対し、「その人にあらず」と固辞します。それは、右大将とは将の将であって、自ら手を下す地位・役割ではないからです。
このように、仏道修行でも、自分がその地位・役割にないのであれば、徒に他人に対して叱るべきではないと道元禅師は示されます。「他は是れ吾に非ず」(『典座教訓』)などの言葉で、どうしても自分で事を為すのが良いという「美風」がいわれますが、道元禅師ほど「役割」などを強調した人はいません。
一例として、次の言葉も紹介しておきましょう。
如し大己の所に在らば苦事は先ず作せ、好事は応に大己に譲るべし。
『対大己五夏闍黎法』第30
今でこそ、だいぶ雪も少なくなりましたので、年末年始であっても、雪の無い年もありますが、昔はそんなことはなかったようなので、この城国寺では、冬場の行事はほとんど行わないことになっているようです。
ですので、年末年始は暇なもので、完全な休養期間になっています。一般の方にも参加していただけそうなのは、除夜の鐘くらいでしょうか。
【お知らせ】
曹洞宗・満福山城国寺では、12月31日午後10時から「除夜の鐘」をつくことが出来ます。希望される方は、当日当山までお越し下さい。
場所:宮城県栗原市花山草木沢宿34番地
アクセス:東北自動車道築館インターから西に40分
東北新幹線くりこま高原駅から西に1時間
ですので、年末年始は暇なもので、完全な休養期間になっています。一般の方にも参加していただけそうなのは、除夜の鐘くらいでしょうか。
【お知らせ】
曹洞宗・満福山城国寺では、12月31日午後10時から「除夜の鐘」をつくことが出来ます。希望される方は、当日当山までお越し下さい。
場所:宮城県栗原市花山草木沢宿34番地
アクセス:東北自動車道築館インターから西に40分
東北新幹線くりこま高原駅から西に1時間
なんでも、最近ではクリスマスがキリスト教的文脈に依存していることを理由に、脱・宗教化を図る目的で「ハッピー・ホリデーズ」とかいうらしいですね。それは非常に良いことだと思います。世界には、キリスト教徒では無い人もたくさんいるわけで、そういう人達が、意味も知らずに「メリークリスマス」なんていうのは、おかしいわけです。
商売する人達も、何かの「理由」が欲しいだけで、キリスト教の祝日である必要はないのでしょうから、こういう脱・宗教化の傾向は非常に望ましいといえます。
これが、日本の宗教とかになると、もうアッサリとしていて、最近では「お盆休み」がないという企業も増えているといいます。確かに、脱・宗教化という流れからすれば、それは正しいことですが、しかし一方で、そういう流れを進めている人達が、ただの仏教嫌い・坊主嫌いであることも多いようです。困ったものです。
さて、ですから、明日はキリスト教に関係なく、ただ、多くの人の幸せを祈る日、という感じで良いと思います。
商売する人達も、何かの「理由」が欲しいだけで、キリスト教の祝日である必要はないのでしょうから、こういう脱・宗教化の傾向は非常に望ましいといえます。
これが、日本の宗教とかになると、もうアッサリとしていて、最近では「お盆休み」がないという企業も増えているといいます。確かに、脱・宗教化という流れからすれば、それは正しいことですが、しかし一方で、そういう流れを進めている人達が、ただの仏教嫌い・坊主嫌いであることも多いようです。困ったものです。
さて、ですから、明日はキリスト教に関係なく、ただ、多くの人の幸せを祈る日、という感じで良いと思います。
他の非を見て、わるしと思ウて、慈悲を以てせんと思はば、腹立つまじきやうに方便して、傍の事を言ふやうにてこしらふべし。
『正法眼蔵随聞記』巻2-5
道元禅師は、他人の非を見、それを悪いと思ったとき、その叱り方として、相手が腹立つことがないようにせよと仰っています。そして、それこそが慈悲を持った叱り方だといえるのです。
我々はどうしても、「自分が正しい」と思えば、その正しさを笠に着て、一気に相手を追い詰めようとし、様々な暴言を吐き、暴挙を行うことがあります。しかし、それによってもし、相手が怒りを覚えたとすれば、むしろこちらにも、「瞋恚」を起こさせたという罪を得るのです。
瞋恚を始めとする三毒は、仏道からその人を遠ざける原因となります。よって、相手に迂遠な道を歩ませたとすれば、これは罪を得るのです。ですから、罪を得ることがないように、とにかく怒りを覚えさせないように、様々な方便を述べて、相手を説得すべきであると、道元禅師は仰っているのです。
『正法眼蔵随聞記』巻2-5
道元禅師は、他人の非を見、それを悪いと思ったとき、その叱り方として、相手が腹立つことがないようにせよと仰っています。そして、それこそが慈悲を持った叱り方だといえるのです。
我々はどうしても、「自分が正しい」と思えば、その正しさを笠に着て、一気に相手を追い詰めようとし、様々な暴言を吐き、暴挙を行うことがあります。しかし、それによってもし、相手が怒りを覚えたとすれば、むしろこちらにも、「瞋恚」を起こさせたという罪を得るのです。
瞋恚を始めとする三毒は、仏道からその人を遠ざける原因となります。よって、相手に迂遠な道を歩ませたとすれば、これは罪を得るのです。ですから、罪を得ることがないように、とにかく怒りを覚えさせないように、様々な方便を述べて、相手を説得すべきであると、道元禅師は仰っているのです。
先師天童浄和尚住持の時、僧堂にて衆僧坐禅の時、眠リを警むるに履を以て是レを打チ謗言呵嘖せしかども、僧皆打タルる事を喜び、讃嘆しき。
ある時、また上堂の次でには、常に云ク、「我レ已に老後の今は、衆を辞し、庵に住して老を扶ケて居るべけれども、衆の知識として各々の迷ヒを破り、道を助けんがために住持人たり。是レに因ツてあるイは呵嘖の言を出し、竹篦打擲等の事を行ず。是レ頗る恐レあり。然れども、仏に代ツて化儀ヲ揚グル式なり。諸兄弟、慈悲をもてこれを許し給へ。」と言へば、衆僧流涕しき。
是ノごとキ心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ブべけれ。住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我ガ物に思うて呵嘖するは非なり。況ンヤそノ人にあらずして人の短を謂ヒ、他の非を謗るは非なり。能々用心すべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-5
道元禅師の本師である、天童如浄禅師という方は、非常に厳しい修行をしたことでも知られておりますけれども、自分で行うのみならず、弟子に対してもそれを要求した人でした。それは、坐禅修行こそが、仏道の正道を歩くものであると確信していたからです。
そこで、以上に見たような、厳しい指導が行われたわけです。ただ、これについて、すぐに誤解する人は、自分も如浄禅師のようになりたいというのです。しかし、その人の多くは、ただ、他人よりも上に立ちたいだけであって、本当に、指導される側に立って思っている人は皆無です。
ですので、これはちゅういすべきであr道元禅師も「住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我ガ物に思うて呵嘖するは非なり。」とされているのです。
ある時、また上堂の次でには、常に云ク、「我レ已に老後の今は、衆を辞し、庵に住して老を扶ケて居るべけれども、衆の知識として各々の迷ヒを破り、道を助けんがために住持人たり。是レに因ツてあるイは呵嘖の言を出し、竹篦打擲等の事を行ず。是レ頗る恐レあり。然れども、仏に代ツて化儀ヲ揚グル式なり。諸兄弟、慈悲をもてこれを許し給へ。」と言へば、衆僧流涕しき。
是ノごとキ心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ブべけれ。住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我ガ物に思うて呵嘖するは非なり。況ンヤそノ人にあらずして人の短を謂ヒ、他の非を謗るは非なり。能々用心すべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-5
道元禅師の本師である、天童如浄禅師という方は、非常に厳しい修行をしたことでも知られておりますけれども、自分で行うのみならず、弟子に対してもそれを要求した人でした。それは、坐禅修行こそが、仏道の正道を歩くものであると確信していたからです。
そこで、以上に見たような、厳しい指導が行われたわけです。ただ、これについて、すぐに誤解する人は、自分も如浄禅師のようになりたいというのです。しかし、その人の多くは、ただ、他人よりも上に立ちたいだけであって、本当に、指導される側に立って思っている人は皆無です。
ですので、これはちゅういすべきであr道元禅師も「住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我ガ物に思うて呵嘖するは非なり。」とされているのです。