末世の比丘、聊カ外相尋常なる処と見ユれども、また是レに勝リたる悪心も悪事もあるなり。仍て、好キ僧、悪シキ僧を差別し思フ事無クて、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必ズ仏意に叶ツて、利益も速疾にあるべきなり。
また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思フベシ。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学スベキなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-15
末世の比丘は、外見は多少まともそうでも、内面は何を考えているか分からないと道元禅師は指摘します。しかし、だからこそ、僧の善悪を付けてしまうことはないとしています。つまり、供養することが、何であれ結果としての功徳をもたらすのです。
よって、在家人は僧侶に供養をしていれば良いのだ、と道元禅師はいわれます。また、その功徳がいつおとずれるかは分かりません。しかし、必ず得るものなので、ただ真心から信じれば良いというのです。
また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思フベシ。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学スベキなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-15
末世の比丘は、外見は多少まともそうでも、内面は何を考えているか分からないと道元禅師は指摘します。しかし、だからこそ、僧の善悪を付けてしまうことはないとしています。つまり、供養することが、何であれ結果としての功徳をもたらすのです。
よって、在家人は僧侶に供養をしていれば良いのだ、と道元禅師はいわれます。また、その功徳がいつおとずれるかは分かりません。しかし、必ず得るものなので、ただ真心から信じれば良いというのです。