また云ク、我レ若シ南泉なりせば即チ道フべし、「道ヒ得たりとも即チ斬却せん。道不得なりとも即チ斬却せん。何人か猫児を争ふ、何人か猫児を救ふ。」ト。
大衆に代ツて道ハん、「既に道得す。請フ、和尚猫児ヲ斬ラン(ことを)。」ト。
また大衆に代ツて道ハん、「南泉ただ一刀両段のみを知ツて一刀一段を知ラず。」ト。
弉云ク、如何ナルカ是レ一刀一段。
師云ク、大衆道不得、良久不対ナラバ、泉、道フべし、「大衆已に道得す」と云ツて猫児を放下せまし。古人云ク、「大用現前して軌則を存セず。」ト。
また云ク、今の斬猫は是レ即チ仏法の大用、あるいは一転語なり。若シ一転語にあらずは、山河大地妙浄明心とも云フべからず。また即心是仏とも云フべからず。即チこノ一転語ノ言下にて、猫児ガ躰仏身と見、またこの語を聞イて学人も頓に悟入すべし。
『正法眼蔵随聞記』巻2-4
これは、南泉普願による、斬猫話について、道元禅師が語ったものであります。南泉の弟子達が、猫の子供を巡って争っていました。そこで、南泉はその猫を採り上げて、これが何物かと聞くのです。そして、答えられなければ斬ってしまうぞ、と迫りました。
弟子達は答えられず、南泉は猫を一刀両断にしてしまったのですが、これについて道元禅師は南泉が、一刀両断を知っているけれども、一刀一断を知らないと喝破するのです。
仏法とは大いなる働きであり、いわゆる両断というような分別を及ぼすことは出来ません。つまり、この仏法の働きこそが、一刀一断だというのです。この猫を斬る行為は、弟子達から執着心を奪うものではあります。しかし、その猫そのものが仏法であるという働きをも奪うものです。
よって、本来的に弟子を、仏法に目覚めさせるためであれば、一刀一断でも良いというのです。
大衆に代ツて道ハん、「既に道得す。請フ、和尚猫児ヲ斬ラン(ことを)。」ト。
また大衆に代ツて道ハん、「南泉ただ一刀両段のみを知ツて一刀一段を知ラず。」ト。
弉云ク、如何ナルカ是レ一刀一段。
師云ク、大衆道不得、良久不対ナラバ、泉、道フべし、「大衆已に道得す」と云ツて猫児を放下せまし。古人云ク、「大用現前して軌則を存セず。」ト。
また云ク、今の斬猫は是レ即チ仏法の大用、あるいは一転語なり。若シ一転語にあらずは、山河大地妙浄明心とも云フべからず。また即心是仏とも云フべからず。即チこノ一転語ノ言下にて、猫児ガ躰仏身と見、またこの語を聞イて学人も頓に悟入すべし。
『正法眼蔵随聞記』巻2-4
これは、南泉普願による、斬猫話について、道元禅師が語ったものであります。南泉の弟子達が、猫の子供を巡って争っていました。そこで、南泉はその猫を採り上げて、これが何物かと聞くのです。そして、答えられなければ斬ってしまうぞ、と迫りました。
弟子達は答えられず、南泉は猫を一刀両断にしてしまったのですが、これについて道元禅師は南泉が、一刀両断を知っているけれども、一刀一断を知らないと喝破するのです。
仏法とは大いなる働きであり、いわゆる両断というような分別を及ぼすことは出来ません。つまり、この仏法の働きこそが、一刀一断だというのです。この猫を斬る行為は、弟子達から執着心を奪うものではあります。しかし、その猫そのものが仏法であるという働きをも奪うものです。
よって、本来的に弟子を、仏法に目覚めさせるためであれば、一刀一断でも良いというのです。