中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

天守閣は天主閣?

2023-08-03 22:02:38 | 歴史が得意になる

織田信長 画像お借りしました

織田信長は琵琶湖湖畔の安土に高層の天守閣を持った安土城を築きます。

それまで3層ほどの城はあったのですが、5層6階にも及ぶ高層の建物ははじめてです。その後の多くの城を見ているので、私たちはそれほど違和感はありませんが、はじめてその姿を見た人々は大いに驚いたことでしょう。

桃山時代の武将の城の象徴と言える天守閣はいったい誰が、どのような経緯で発想したのでしょう?

一つは中国の高層の楼閣、塔です。

安土城の天守閣の内装には中国の人物像が描かれました。

「安土山ノ記」を書いた妙心寺の南化玄興(なんかげんこう)の詩には

「阿房殿と同じように高い」

というように秦の始皇帝の宮殿阿房宮に比べています。

ただ、屋内の仏教的、儒教的な画題の上に信長がいるとすると、それらの上に立つという考えもあります。

もう一つは西洋の建築の影響です。これはまったくわかりません。しかし、安土城を建設する時に城下に宣教師の施設の建設を織田信長は許しています。信長は宣教師から多くの情報を得ていました。

そして、安土城が完成して、狩野永徳にそこからの景観を描かせて、それを屏風にしたててローマに送りました。西洋に城をアピールしたかったのでしょうか。

天主とはキリスト教の神ゼウスをさします。

「てんしゅ」は、殿主、殿守、守殿などを書かれたようですが、意外に天守という言い方は江戸時代に入って、とくに幕末にかけて多く用いられるようになった。信長のころは天主と書かれることがあり、それはキリスト教の主を指すと考える向きもあります。

さまざまな考えを現実化した信長の頭の中をのぞいてみたいものです。


ザビエルがやって来た

2023-08-03 13:42:02 | 歴史が得意になる

 

1549年、ザビエルが鹿児島にたどり着きます。

アンジロウという青年にマラッカで出会って、その聡明さに関心を持ち、日本に来たとされます。アンジロウは罪を背負った人物でした。

鹿児島から平戸へ行き、布教を始めました。山口の路上で説法をしていると、一人の足の不自由な男が、ザビエルに近づきました。のちに布教師となるロレンソです。ロレンソは目も不自由でした。

ザビエルは京都に向かい、まもなく豊後から日本を離れて、戻ることはありませんでした。

ロレンソは多くの人々に熱心に布教をし、織田信長や豊臣秀吉にも出会いました。

しかし、1587年、豊臣秀吉は九州を平定するために博多に来て、突然、伴天連追放令を発します。身近に仕えていたキリシタン大名高山右近はただちに所領を没収され、追放されました。

その後もしだいにキリスト教徒は迫害され、棄教、改宗しなければ、拷問のうえ殺されてしまいました。

江戸時代に入って、島原や天草の農民が起こした一揆はキリシタン一揆ということで、幕府から10万以上の兵を動員して、4万人近い一揆軍を皆殺しにしました。

そして、幕府は鎖国という政策を選択するのです。

しかし、日本でわずかの期間に数十万というキリスト教信者が生まれたのはなぜだったのでしょう?そして、多くの信者は殉教という形で命を絶ったのです。

宣教師たちの報告書を見ても、日本人が教理を整然と理解し、聡明で、むやみに妄信するような人たちではなかった、あとは懺悔を好んだ、ということが伝えられます。

ザビエルの来日は、西洋文化を伝えたり、日本人の精神を変えたり、大きな変革を与えましたが、日本を閉鎖的な社会にした一因ともなってしまいました。