菅井梅関送別図の一部 仙台市博物館
これまでの日本の歴史で鎖国は閉ざされた、取り残されるイメージでとらえられていました。
しかし、この唯一の海外に開かれた場所に当時の文化人は非常に注目していました。
司馬江漢(西洋画)、平賀源内などが長崎に行って、西洋の文化を吸収しようとしましたが、江戸にも長崎屋という西洋の文物を扱う店もできたりしました。
そして、西洋だけでなく、日本は古くから中国の文化を吸収していましたが、続けて明や清の宗教文化や文人文化を吸収しようとしました。
中国に行くことが出来ないので、日本の名所を中国に見たたて、耶馬渓(やばけい)と名付けて愛でたりしました。
東アジアの文化人は詩書画をたしなむのが理想ですが、長崎に来てネイティブの中国人に詩や絵を学びました。ただし、中国の一流の人が来ることはなかったので、やや偏った受け入れ方をしたりしました。
詩で有名な頼山陽も長崎に来て、江芸閣(こううんかく)という人物に会おうとしました。江芸閣は貿易のために来た人ですが、なんどか科挙の試験を受けた(結局落ちたらしい)人で詩文の心得があって、当時の日本の文人が競って会いに来たのです。
残念ながら山陽は江芸閣に会えませんでしたが、手紙はやり取りできたようです。(江芸閣は何度も長崎に来ました)
明治時代になって、海外の渡航ができるようになるとすぐに日本から上海などに文人が行きました。それは江戸時代に交流があって、その人脈をたよって行ったのでした。