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天草四郎を考える

2023-08-16 09:05:01 | 歴史が得意になる

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キリシタンの美少年天草四郎が多くの民を率いて、一揆をおこし、一地域の騒動ではなく、幕府軍を動かして、ついには日本を鎖国という政策をとらせた。

という風に考えられています。

近年はこの天草島原の乱について多くの考察が行われて、キリシタンの暴動ではなく領主の圧政に苦しんだためだ、天草四郎は虚像だ、とさまざまな見方が示されます。

宣教師の記録では天草四郎は「高貴な両親の間に生まれ、もともと肥後(天草)の生まれでヒエロニモ(ジェロニモ)益田四郎(時貞)というわずか18歳の青年であった。」とします。

数えの18歳なので16,7歳の若者であった。家は大矢野氏に仕えて、キリシタン大名小西行長が肥後を統治した時にその家臣となったようです。つまり武士の家柄のようです。

天草の乱の首謀者たちが小西家の浪人のキリシタンという言い方をしますが、小西行長の統治は関ヶ原の戦い(1600年)までなので、乱の頃(1636年)には二世代ほど間があります。

ただ、一揆(とします)に加わったもののなかには武芸に秀でた人物がいた可能性は高いと思われます。

1612年にママコフ神父が25年後に救世主となる若者があらわれる、という予言をしたといいますが、これもこの伝え以外にあらわれない人物のようです。

また、四郎が目の不自由な少女の目を治したり、天草と島原の海を渡ったり、という奇跡をおこしたことももちろん信ぴょう性は低いと思われます。

ただ、ポルトガル人のようなひだエリのある美しい衣装をまとっていたのは事実かもしれません。

周りから持ち上げられて、一揆の主導者となったカリスマともいわれますが、宣教師が、四郎が主導した、と書き、一商人が四郎が軍を率いているのを見たという証言から、指示を与えていた可能性は高いようです。

幕府軍は原城を攻めて、四郎らしい若者の首をいくつも集めて母親に確認させたとされます。あるいは四郎は生き延びたとも伝えられますが、それはキリシタンにとってあまり意味のないことかもしれません。

天才やカリスマのことは凡人にはおそらくわからないものです。