中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

お殿様はどこにいるのか?

2023-08-22 13:12:52 | 歴史が得意になる

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江戸時代、殿さまはどこにいるのか?

多くの人は城の天守閣の最上階にいて、下々を見下ろしていると考えているのではないでしょうか。

私もその一人でしたが、天守閣や本丸は戦闘や公的な場所で日常にはあまり使われなかったようです。日常は御殿の生活空間の二の丸などですが、多くの大名は江戸屋敷を持って、参勤交代で国元(領地)と一年おきに行き来していました。

大藩では江戸に上屋敷、下屋敷があり、細川家などは愛宕に中屋敷があったそうです。

江戸には奥さんや子どもがいるので、殿さまも江戸暮らしの方が良いと思う人もいたと思います。肥前平戸の松浦隆信は江戸に10年暮らしたというので、ほとんど国元に帰らない殿様もいたかと思います。

また、引越し大名として映画もできた松平直矩(なおのり)などは、姫路から越後、豊後日田のち奥州など、多くの転封を命じられました。直矩は狩野探幽の大ファンで、その絵をもとめた趣味もあったようですが、生涯、引越しの憂き目を見ました。

東京(江戸)出張は今も昔も公務の一大事で、殿さまは大きな負担を抱えました。


追い腹とかたき討ち 忠臣蔵

2023-08-21 21:36:58 | 歴史が得意になる

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元禄時代は生類憐れみの令が出されるなど命を尊ぶ風潮がありました。しかし、

元禄15年12月14日(西暦で1702年1月30日)、赤穂(あこう)藩の旧家老大石内蔵助(くらのすけ)をふくむ47人は切腹した藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)のかたき討ちとして、吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)の屋敷に押し入り、その首を取るという事件が起こりました。

のちに忠臣蔵(ちゅうしんぐら)として、劇などの題材となった事件です。

江戸時代初期までは藩主が亡くなった時は、仕えた侍が追い腹(切腹)を切り、あとを追いました。しかし、1663年、幕府が殉死を禁じました。忠臣蔵は追い腹を禁じて30年ほど経った事件でした。

また、かたき討ちは父母や兄といった尊属(自分より上の親族)の敵(かたき)を討つことが認められました。

赤穂の志士たちははこの追い腹とかたき討ちを同時にはたしたことになります。

上野介の襲撃への罪状として切腹が申し渡されたが、これは結局、追い腹を認めたことになります。(志士たちが切腹するのを気の毒に思う向きもありますが、彼らの本望であったと思われます)

ただし、この事件が主君へのかたき討ちとして認められるかははっきりしていません。

いまではおどろくような行為ですが、これが主君への忠誠であり、主君の無念を晴らすという武士の思いでした。

公儀(幕府)も表向きは、騒動の処罰という裁決をしますが、志士たちは徳川家康が故郷駿府(静岡)から、江戸に移した品川の泉岳寺に葬られることになりました。

これは幕府が彼らの没後を見守ることにしたのだと思われます。

 

 

 


鎖国でも 日本の美を世界に

2023-08-21 08:47:51 | 歴史が得意になる

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鎖国でも海外の情報を入手する努力は「解体新書」の刊行などにもみられました。

では、日本から発信することはなかったのか?

わずかな例として、佐賀の柿右衛門様式の磁器を挙げたいと思います。

佐賀で陶磁器がさかんになったのは、豊臣秀吉が朝鮮への出兵を行い、諸将が帰国の際に連れて帰った陶工たちによるとされます。朝鮮の陶工はもともと陶器を作っていましたが、磁器の製法を学んで日本で磁器の製造がはじまりました。

この磁器の生地を「にごし手」と呼ばれる乳白色にして、繊細で美しい色絵をつけた柿右衛門様式磁器がヨーロッパに輸出されました。

その美しさはヨーロッパの人達の関心をよんで、大いに受け入れられ、マイセン(ドイツ)やチェルシー(イギリス)、シャンティ―(フランス)などの窯が意匠をまねました。

もともと中国陶磁が輸出できなくなったために輸出が始まったのですが、回復するとしだいに日本からの輸出が減りました。

また、にごし手に美しい色絵を描くのも元禄ころまでの短い間だけでした。

しかし、日本の美術を世界にひろめた功績は非常に大きいと思われます。


いかにも元禄的な画家 英一蝶

2023-08-19 21:54:28 | 歴史が得意になる

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英一蝶は親しみやすい風俗画を描いた画家として知られるが、もともとは狩野奥絵師狩野安信に学んだ画家であった。

しかし、狩野家からは破門となり、不行状から八丈島へ島流しとなった。

一節に、遊郭で幇間(太鼓持ち)のようなことをして、名家の武士をだましたことによるという。元禄ころの遊郭は高級で、地位や裕福人でないと入ることが出来なかった。

一蝶は島で大いに絵の制作に励み、庶民の風俗を見事に描いたいわゆる「島一蝶」とよばれる絵を描いた。

一蝶は江戸にもどってのちもすぐれた風俗画を描きました。

一蝶は松尾芭蕉とも親交があったといわれます。親交ははっきり確認できないのですが、芭蕉の周囲の句集に一蝶の句が選ばれています。自分の絵にも句を書くことがありました。

臼ひき(餅つき)図 英一蝶

年越しの準備に餅つきをして回る人が臼をおして、杵をかつぐようす。

雪が積もって、臼が動かない風情を描く。

 


鎖国って?

2023-08-18 09:05:27 | 歴史が得意になる

春木南冥 虫合戦図

 

幕府は天草島原の乱の後、中国とオランダとだけ長崎で交渉する、つまり鎖国の体制をとりました。

これによって日本は長く、世界との関係を断った、と考えられました。

たしかに西洋のような近代国家になることが遅れたかもしれません。しかし、西洋の文化はさまざまな形で日本に伝わっていたと思われます。

この絵は春木南冥という人の絵です。虫たちが朝顔の大砲や草木を使って戦争をするという不思議な絵ですが、木々の描写や構図は西洋画を学んだと思われます。

この人のことはよくわかっていないのですが、お父さんは春木春湖という文人で、長崎に行ったことがあります。九州へ行くときに岡山あたりで司馬江漢と出会っています。春湖は文人なので、中国のことを知りたいと思って長崎に行ったと思われますが、江漢から西洋画の話を聞いたのでしょうか、息子がこのような絵を描くことになります。

さまざまなルートで西洋の情報が日本に入っていたのではないかと思います。

そういえば、幕末にも蕃書調所という西洋の本を研究する組織を作って、西洋画を描く人を雇いました。関係は持たないが、情報を得るという姿勢があったのだと思います。