気の向くままに junne

不本意な時代の流れに迎合せず、
都合に合わせて阿らない生き方を善しとし
その様な人生を追及しています

Old Music Times R&R 編 Part -3-

2015年03月04日 | 下町放送局

 

 Buddy Holly       

 チャールス

 ハーディン・ホリー

1936年9月7日、テキサス州ラボック生まれ。4歳からバイオリンとピアノを習い始め、7歳頃からギターに転向。子供の頃からC&Wを聴いて育ったというのは、テキサスと云う土地柄のせいも有ると思われる。もっともこの時代の白人にとっては、R&Bやブルースとは、殆ど縁の無いものであった事は言う迄も無い。後の白人R&Rシンガー達がC&Wをレコーディングするケースが目立つ事でも、その事が良く解る。

バディー・ホリーのサウンドの特徴としては、テキサスとメキシカンの音楽を融合させた「テックスメックス」と云う独特のものである。音楽的ルーツとしてはカントリーに古いゴスペルを持って来たもの・・・とも言われる事も有るが、それは当てはめ難いと思う。それ程アクの強いサウンドではないし、心地良いリズムに乗ったメロディアス、かつ爽やかなウェスト・コースト風のフィーリングに溢れている。そこにはメキシカン・サウンドの香りも隠れている。

彼のヴォーカル・スタイルはボビー・ヴィーやトミー・ロウなどに顕著に受け継がれているが、それよりも大事な事は、バックのクリケッツと共に作り上げたバンド・スタイルである。リード・ギター、リズム・ギター、ベース、ドラムスと云った、現在のバンド・スタイルを確立させた事である。チャック・ベリーも似た様なバンド・スタイルでは有るが、常にこのスタイルをとっていたわけではない。

この時代のR&Rアーティストは何故か英国やオーストラリアでの人気が高く、後のビートルズやストーンズ達にも影響を与えているし、ドン・マクリーンは彼の死後「American Pie」と云う歌の中で、「彼が死んで音楽は死んだ」と云う様な内容の曲を書いている。

 1957年3月から活動していたバディー・ホリーだが、1959年2月3日、英国からアメリカへ帰る為に雪の降る中TAXIで空港に向かう途中、車がスリップ事故を起こし、同乗していたリッチー・バレンス、ビッグ・ボッパー(J・P.リチャードソン)と共に帰らぬ人となってしまった。僅か3年間の活動期間では有ったわけだが、多くの曲を残し、「Peggy Sue」「That'll Be The Day」 など、後の映画に使われる様な名曲をたくさん残している事からも、如何に影響力を持っていたのかが窺われる。如何に事故の為とはいえ、誠に惜しいアーティストを失ってしまった事が残念でならない。

 

 

Gene Vincent

=Be Bop A Lula=

成功し過ぎたデビュー曲

ジーン・ヴィンセント・クラドック

1935年2月11日、ヴァージニア州ノーフォーク生まれ。1971年10月13日、ロスアンゼルスの病院で他界。

 当時の白人R&Rスターの多くがデビュー前にC&Wをやっていたのと同様に、彼も少年時代からギターを手にしてバンドを作り、カントリーをやっていた。これは当然とも言える事で、まだその頃にはR&Rは産声を上げていなかったからだ。特にウェスト・コースト辺りは、今も昔もカントリーの盛んな土地柄である事を考えれば、直ぐにも納得がいく。

彼の音楽性や唱法は多分にそこから影響されたものではあるが、それにしても彼ならではの独特のものを秘めている。その為かどうかは決めつけられないが、R&Rシーンに於いて、エルビス・プレスリーの様に偉大な足跡を残していないし、チャック・ベリー達の様に、今日のロック・アーティスト達に多くの影響を残した歌手ではなかった。しかし、ロック界に残した功績はR&Rファンにとっては忘れられないものである。

 1956年と云えば一般的にはR&Rが誕生したとされている。実際この年には多くのR&Rシンガーやバンドが世に出て来ている。そしてこのジーン・ヴィンセントも21歳の年に「Be Bop A Lula」でデビューしている。が、そのデビューの飾り方が正にセンセーショナルであった。この一曲で、一挙にR&R界の頂点に迄上り詰めてしまったのである。彼にとっての不幸は同時にそこに在った。急激に華やかに、そして一気に頂点まで上り詰めてしまった事で、その人気を維持出来なかったのである。

彼の全盛期は1956~1957年で、この間全米ヒットランクに登場した曲は四曲ばかりである。1959年6月には来日し、日劇のステージにも登場し、ロカビリー・ファンを歓ばせた。後期には再びC&W色の濃い曲を出していた。

 

 

 Carl Parkins

白人による白人らしいR&R=

   ( ロカビリー )

21世紀の現在では、1950年代末期から‘60年代初めのロックン・ローラーの名前を知る者は、余程のR&Rファンでもない限りそうは居ないだろう。エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、リトル・リチャードの名前は知っていても、彼、カール・パーキンスと云う名前を知る人は珍しいと言える。しかし、ビートルズが「MatchBox」を演っていたり、エルヴィス・プレスリーが「Blue Suede Shoes」を大ヒットさせた事は知る人も多い筈。

彼はシンガー・ソング・ライターの走りの一人として挙げられる。サウンド的には、ヒルビリーと云う音楽をご存知だろうか? カントリーに非常に近いもので、カントリーより古めかしい感もあるが、より軽快でリズミカルなものと思ってもらえればいい。そのヒルビリー音楽とR&Rが融合したものがロカビリーといってもいいだろう。現実的にはその線引きは難しい。語呂合わせ的にはロック+(ヒル)ビリー=ロック・ア・ビリー=ロカビリーとイメージ。カール・パーキンスとは、そのロカビリーの代表格と言える。ロックン・ローラーでありながらもカントリー色が濃いからである。日本では余り馴染みが無い人だけど、当時はR&Rを白人の間でポピュラー化させるのに一役買うという役割を担った人である。

初期のジョージ・ハリソンなどは彼の奏法を真似た事も有る。サウンド的には、全体としては常に似た様なリズム・パターンが多かったが、個別的には其々味の有る曲が多い。言ってみれば、黒人受けを狙うより、白人による白人らしいR&R、ロカビリアンであったと言える。

 

 

Jerry Lee Lewis

1935年9月29日、ルイジアナ州フェリディ生まれ。

カントリー音楽を聴いて育ち、信仰深い家族の中の影響下に在り、兄弟達がバイブル・カレッジを卒業し、彼自身もミッション・スクールを卒業した当初は神父になる予定だったという話しが有る。この事からも判る通りゴスペル・ミュージック、は彼の音楽形成に多大なる影響を与えたという事が窺える。

 

父親の持っていたギターを手にしたのが、彼が楽器を始める切っ掛けとなっており、この頃はハンク・ウィリアムスなどのC&Wに親しんでいた。しかしその後、8歳の時に当時800ドルもすると云うピアノをプレゼントされてからは、興味はピアノへと移って行く。それからは父のエルモにピアノを習い、C&Wのみならずゴスペル、ブルース、ブギウギ・ピアノなど、幅広くマスターしていった。ティーンエイジャーの頃から、ちょっとしたエンターテイナー振りを発揮していたらしい。

1954年にはC&Wを二曲レコーディングした最初のデモ・テープを作成するも、レコード化には至らなかったが、1956年にサン・レコードからデビュー・シングルとして「Crazy Arms b/w End Of The Road」を発表。翌‘57年には彼の出世作「Whole Lotta Shakin' Goin' On b/w It'll Be Me」を発表。これは全米ヒット・チャートで3位、イギリスでも8位迄上がるビッグ・ヒットとなった。「火の玉ロック=Great Balls Of Fire b/w You Win Again」も大ヒットし全米で2位、イギリスでは1位になった。勿論ゴールド・ディスクである。

その後もヒット作を生み出していったが、1959年のイギリス公演は13歳の幼な妻を同行した為不評に終った。その後は1961年に「What I Say」を出したり、1963年にはマーキュリーに移りカントリー・チャートで活躍する様になる。

彼の音楽性は、白人音楽と黒人音楽が融合されたピアノ・スタイルの独自のサウンドと、カントリー風の歌唱法に有る。

 

 

 Eddie Cochran           

=ロックン・ロール界のジェームス・ディーン= 

 エディレイコクラン

1938年10月3日、ミネソタ州アルバートリア生まれ。

ギターを始めたのは12歳頃。1953年、カリフォルニア州ベルガーデンズに引っ越し、1955年には、その後行動を共にする事となるジェリー・ケイプハートと云うソング・ライターと出逢っている。折りしもこの1955年という年はロックン・ロール誕生と言われている年である。

1956年後半、ジェーン・マンスフィールド主演の「The Girl Can't Help It=女はそれが我慢できない」に出演。この映画には当時のトップ・アーティスト達が顔を並べていた。ジーン・ヴィンセント、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、ザ・プラターズ、ジュリー・ロンドン、レイ・アンソニー達である。エディー・コクランは未だ下積みの時代であったので、正に出世の為の一大チャンスを得たと云う事になる。

この映画で歌ったのが「Twenty Flight Rock」。後のイギリスでの話し、ジョンとポールが初めて会った時、ポールがこの曲を歌ったところ、ジョンは「オレのバンドに必要なのはこの男だ」と思ったそうだ。それ程上手くポールはこの曲を弾いたのだろう。実際ギターに関してはポールの方が上手だ。

翌1957年、リバティより「Sittin' In The Balcony b/w Dark Lonely Street」で本格的なデビューを飾った。4月4日にはビルボード・ホット100で18位を記録。続いて「Mean When I'm Mad」「Drive In Show」「Twenty Flight Rock」を出し、1958~‘59年にかけては7枚のシングルを発表。この内5曲をヒット・チャートに送り込んだ。中でも彼の代表曲となる「Summertime Blues」はベスト10内にランク・インされている。

正にシンデレラ・ボーイとなったが、活動拠点の多くをイギリス、ヨーロッパに移していた1960年4月17日、ロンドン空港へ向かう途中、乗っていたタクシーの事故で他界した。21歳と云う若さであった。尚、前年の1959年2月3日にバディー・ホリーは既に他界している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

                         



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして♪ (テトママ)
2015-03-28 08:51:30
読者登録ありがとうございます♪
何度か読ませてもらった事があります。
スポーツはあまりわかりませんが、福岡市に住んでいるので宗リンの記事は読ませてもらいました(^_^)v
音楽はjunneさんのように 詳しく記事を書く事もなく好きな曲を節操無しに載せまくってます(#^.^#)
どうぞよろしくお願いします♪
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読者登録、有り難うございます (junne)
2015-03-29 03:27:11
初めまして、東京上野から気の向くままに思い付きで書いているjunneと申します。私が気付く前から読んで頂いていたとの事、嬉しく思っています。私がテトママさんを発見したのはショッキング・ブルーのヴィーナスからでした。Youtubeはたまに見ていてFacebookに何度か「お気に入り」として取り込んだ事は有ったのですけれど、さすがにショッキング・ブルー迄は気が回らずにいました。ですからテトママさんのを見た時は、「ああ、ここに仲間がいた…」みたいな気になってついついこんな事になってしまいました。勿論、エンゲルベルト・フンパーディンクも好きでしたよ。
私の音楽の好みも、実はかなりの無節操。ただし、’80年代中期以降のものはほとんど聴きませんけど。福岡との関りで云うと、かなり昔、友達がいて沖縄へ行く途中に何度か寄った事が有ります。「どんたく」や「追い山笠」を生で見た記憶は今でも鮮明の残っています。でもそれは、まだ路面電車の走っていた頃の事です。

少動物は好きで「犬派」でもあり「猫派」でもあるので、UPされている写真を見るのも楽しみです。
どうか宜しくお願いします。
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初コメント (のん)
2015-09-03 14:47:16
つばらさんのブログにコメント有難うございました。
ご指摘訂正して只今反省中です。
今日はこちらにお邪魔させて頂きました。
内容の濃さにびっくりです。
私もビートルズはほぼ全部レコードを買って聴きまくった年代です。
スポーツはわからないんですが、
イチロウ君のお父さんが犬の散歩をしているのは見たことがあります(笑)
また、お邪魔させて下さいね。
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