吉原遊郭 (新潮新書 高木まどか)
わたしは、恋愛はこの世に存在しないものだと思っている。あれは蜃気楼である。あると思って近づくと全く違うものであることが判明する。一度そうだと経験してもいやどこかにあるはずだと何度でも蜃気楼に近づく人と、二度と近づかないのとの二種類に分かれる。
そのどこかにあるはずだと思う人を相手に、実はこの世にない「恋愛」または「恋に似たもの」を売るという奇抜な商売をしているのが吉原だと思っている。この世にないものを売るのである。すごいアイデアではないか。しかも世の人々みな足摺りしてそれを買いたがるのである。ダイエーの中内功さんでもここまで熱心な購買者を育てることができなかった。だれがこの商売を思いつき育てていったのかを知りたくてこの本を読んだ。
まじめな女性の文学者で、この時代に出版された吉原に関する評判記などを読み込んだ結果の研究誌を普通の読者が読んでわかるように書き直した本だと思う。もちろんほかのこともたくさん書いてあって興味深いが、私の疑問に対する答えは我流の読み方で違っていれば筆者に申し訳ないがそれは「太鼓持ち」が思いつき育てたと読める。
私は実はタイコモチならたくさん知っている。小さな権力者に取り入ってわが身の立身または保身を目指す輩のことで、もちろん立身を目指さない人々にも愛想は大変よろしい。愛想とおべんちゃらで世の中を渡ろうとする人々である。このタイプの人で大きな仕事をした人はいない。大抵退職後は寂しそうだし第一本人の意図に反してあんまり出世しない。
この本で取り上げられた昔の本物の「太鼓持ち」は、当たり前のことだが私は一人も見たことがない。客と遊女との間を取り持つ職掌というが具体的に何をどうするのかは詳しくは書いていない。しかし昔の本物の「太鼓持ち」は、盛んに吉原に通い詰めて破綻した人または破綻までしなくとも引退した人がなるものである、との記載で分かった。昔の本物の「太鼓持ち」はプロ野球の監督またはコーチなのである。どうしても現代のタイコモチを連想してしまうので評価が低くなるが、本来は元名選手であった人が引退した後のコーチなのである。コーチは自分の仕事場が「恋愛」または「恋に似たもの」に満たされた場にしたかったのでその段取りをしたのである。それに育てられた客はまた時期が来れば同じ立場になって同じようなことをする。こうやってこの文化が育てられたとみられる。そういえば画家の英一蝶も「太鼓持ち」をしていたという。「太鼓持ち」は簡単になれるものではない。タイコモチと一緒にしてはいけない。
もちろんこの本は、当たり前のことだが昔の吉原がとんでもないブラックなところというスタンスで書かれている。そのことの解説もあちこちにある。その中の一つ「ろくに休みも取れず、病にかかればお払い箱。……甚だしきは暴力を振るわれる。」の文を読んだときはぞーとした。昔はこれが吉原の中だけだったようだが今は日本中の会社役所の中にあるんじゃないのか。
むかし山本夏彦さんは、「遊郭を廃止したら、今度は日本中が遊郭になってしまう。」とおっしゃった。今世の中を観察するに、確かに今日本中が広く薄く遊郭みたいになっている。同時にとんでもないブラックなところも広く薄く日本中にいきわたっている。今の日本の広く薄くいきわたっているものを濃く厚くしたものが吉原であるからそのルーツを知るに良い本であろう。
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