*敬称略 悪しからず
藤澤周平の教師時代は、わずか二年程度しかない。
だが、生徒たちに対する教師としての愛情は、その後再開してのちは
深く濃く生涯にわたって、続く事になった。
藤澤周平は「教師とはかくあるべし」と考えていた。
『例えばですよ、僕とたいして学年、違わないと思うんだけども、
Yさんという先生がいてね、その先生がある時、学校が火事になりましてネ、
寄宿舎、山奥ですからネ、寄宿舎に生徒が泊まってる訳ですね、
それが火事になりまして、冬に、一応全員出したんですけどネ、
何か心配になりましてネ、残ってるんじゃないか、と。
もういっぺん、火の中に飛び込んで、そうして、二階に上がって、
焼け死んだ、亡くなられたんですけどネ。
実際には、生徒達はみんな無事だったんですけどネ、。
そういう気持ちっていうのは、これは、先生でないと出来ない事だと、
思うんですヨ。
先生とか親にしか出来ない事だと思うんですヨね。』
寄宿舎が火災で焼失し、生徒を心配し火の中へ飛び込んだ教師が
亡くなった事故は、昭和30年代に山形県内で実際に起こった事故である。
結核に侵されなければ、あるいは退院後教師に復帰していれば、藤沢周平の
長いトンネルは無かったかもしれない。
多くの作品は、まったく別の形で姿を見せたのではないか。
つづきは、近いうちの別の日に・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます