2020.08.06
『大 地』
at PARCO劇場
作・演出 三谷幸喜
出 演 大泉洋/山本耕史/竜星涼/栗原英雄/藤井隆/濱田龍臣/小澤雄太/まりゑ/
相島一之/浅野和之/辻萬長
https://stage.parco.jp/program/daichi/
配信されているし、ここであえて書く必要なあるのか?とも思ったけれど、あくまで自身への記録として残しておきます。
よかったら読んでみてください。
申し込むのにも大いに悩んだ。
今の時期、どうなんだろう、と。
だけど、三谷幸喜作品のチケットは最近とんと縁がないし、どうせ取れないんだから悩む前に申し込んじまえ・・・とこんな感じだったので、まったく期待していなかったし、「当選しました」のメールに驚いたくらい。
久々の渋谷は特段変わったところもなかったけれど、熱い中、老若男女ちゃんとマスクをつけて歩いている姿が当たり前になっている感覚が、自分の中で変わったところと言えば変わったところかもしれない。
新しくなったパルコ劇場の入り口に、靴底を消毒するマット。
客席はもちろん1つ置きに。
前方はわからないけれど、私の座席の付近は、3席、5席くらいあいているところもあって、さすがにこの時期、「配信で我慢しよう」と決めた人も多かったんだろうと思う。
開幕前のざわめきもない、静かな客席。一人参加のお客さんが大半だった。
三谷作品は、2006年『エキストラ』(コチラ)、2013年『ドレッサー』(コチラ)、2013年『ロスト イン ヨンカーズ』(コチラ)、そして2017年『子供の事情』(コチラ)しか見ていない。
限られているから訳知り顔に語れないけれど、『子供の事情』のときの林遣都さんの役割を今回は濱田龍臣が担っているのだな、と読み返して気づいた。どちらも渦中のワサワサに振り回されて話を道筋が追えなくなりそうな私を気持ちよく前に進ませたり、ちょっと休ませたりしてくれました(活舌の良さ、さわやかさ、堂々としたたたずまい、とてもすてきでした)。
そこは、たぶん共産主義国家の地の果ての収容所。
独裁政権が続く中、反政府運動をしたり、あるいはこの疑いをかけられたり、なかには関係者が運動家だったというだけでひっぱられた、「レッテル」を貼られた俳優や演出家や大道芸人や学生たちが集められ、監視のもと、広い大地を開墾したり、家畜の世話をしたり。
ステージは、収容所の中の一室。通路のなかにそれぞれのベッドと狭い生活空間があり、出演者はそのベッドの周辺か、あるいは通路や前面のステージで、にぎやかに、目いっぱい動き回る。私たち観客には気づかせない自然な感じで「密」を避けた演出と言えるかもしれない。
シェークスピア俳優として知らぬ人はいないという名優バチェク(辻萬長)、パントマイムの世界的な第一人者、飄々としたプルーハ(浅野和之)、権力に真正面からぶつかって妥協を許さずに生きてきたであろう演出家のツルハ(相馬一之)、思想的な意思はまったくないままに最高指導者のモノマネをしたというだけで引っ張られた大道芸人のピンカス(藤井隆)、女形の役者ツベルチェク(竜星涼)は容姿も美しく仕草もしなやかだが、「芸の力で女性を演じている」という信念を持った実は激しく攻撃的な内面を持つ男。ただ一人映画界で生きてきたブロツキー(山本耕史)は英雄を演じることも多いという大人気スター。振る舞いも「スター!」な感じで特異な雰囲気を見せる。
そんな中で、役者としてはあまり目立った活動もなく、裏の仕事ばかりしてきたというチャペック(大泉洋)。収容所でも、絶妙な世渡りのうまさで、役人との交渉や、役者たちの世話を率先して勤め、少なからず重宝がられている。鬱積したものを誰もが抱えて暮らす中で、この男だけは「外にいたときよりも人に注目され感謝され、楽しい」と本心を語ったりする。
そして、語り手であり進行役は演劇を学ぶ大学生だったミミンコ(濱田龍臣)。彼からみれば、普通ならば近くに寄れないような大先輩を目の当たりにして、彼らの語る演劇論やその存在すべてを、不自由な日々の中でも前向きにとらえて、たったひとり「未来」を感じさせる。
そんな彼らに対して、収容所の権力側として、薄っぺらい演劇好きで、演劇界の憧れの存在を前に自分のつたない台本で芝居をやろうと試みる、担当の指導員ホデク(栗原英雄)、それとは真逆に、演劇にもたぶん芸術すべてに関心もなく、冷酷な面を悲しくコミカルに見せつける上役の役人ドランスキー(小澤雄太)が絡む。
「これらの男たちの群像劇」、もうそれだけで三谷作品は成立するではないか。
丁々発止のやりとり、巧みな台詞のやりとり。
当て書きの楽しさは、それがはまれば効果倍増。役者たちは脚本家の筆の上で華麗な時間を創造する。三谷作品初出演という辻萬長が、これでもか!というくらいに大仰に熱く大衆演劇の極みを見せたり、浅野和之が軽妙に”That's パントマイム!” という動きを披露したり、山本耕史が肉体美とともに「オレはスターだ!」の動きで笑わせたり、藤井隆があのキャラのままに最高指導者で登場したり・・・。客席からは拍手が起こる。
人の恥ずかしい部分、隠したい部分、かっこよくない部分を、次から次へと明らかにする。それでも愛すべき愚かな人間たちは、日常の中でひそかな優しさや相手への思いを忘れることはない。
ただ、その優しさや思いつきが、悲劇的な最後を導き、ここよりも過酷で生きては帰れないだろうというもっと奥の谷の収容所へ、一人チャペックを追いやることになる。
潔さなどこれっぽっちもない言動と呪いの言葉で、チャペックはあっけなく連れ去られる。救いようのない結末だ。
新しい政権のもと、自由な時代が巡ってきても、彼らは自ら二度と舞台には戻らなかったこと、ブロツキーは映画の世界に戻ったが二度と得意の英雄の役を演じることはなかったこと。ミミンコのナレーションで明らかになる。
チラシを配る(ここがちょっとはっきりしないのだが)チャペックを街でみかけたという説明で、彼が生き延びたことは救いかもしれない。彼は最後の言葉どおり、自分を裏切った人たちを訪ねて一発ずつぶん殴ったのだろうか。それとも、二度と舞台に立つことはなかった彼らを殴ってもしかたないと思ったのだろうか。
それでも、この芝居は私を励まして胸を熱くした。
彼らが収容所でホデクの稚拙な台本で芝居を作っていたとき、少なくとも一人一人が生き生きとすばらしい時間を過ごしていたこと、「いつか芝居ができる日がくるまで、役者は発声練習をしたり体を鍛えたり、今できることをしているしかないのだ」という言葉がなんと力強かったことか。
いつかこの仲間で地方に巡業に行けたら・・・という言葉どおり、最後は舞台の上手から下手へ、にぎやかに荷車を押して旅をする劇団の一行が通り過ぎる。彼らがかわいがっていたブタのフランチェスカ(だったかな?)まで連れて・・・。叶わなかった夢だから、よけいに鮮やかだ。
こんな時代に生きているけれど、そうか、私は必ず来るであろう日々のために、今できることをしていけばいいのだ、と、そんなわかりきった単純なことを、少し熱い思いとともに感じて、「ダブルアンコールはありませんっ! 拍手をしても無駄です」という作者の力強いアナウンスに急き立てられて(笑)席を立ったのだ。役者たちはもう次の芝居の準備に取り掛かっている・・・そう言ってたかな。
今、この芝居を観られて、本当によかった、そう思いながら帰りの電車に揺られた。
芝居もライブも、配信という方法で今後も新たな道を切り開いていくだろう。遠くに住む人にも届く方法だ。だけど、そのどちらも、やはり生の舞台で、ライブハウスでホールで、体にまとわりつくような不思議な感覚とともに味わえる日を目指してほしい。そのためにできることが私たちにもあるのだろうか、とそんなことを考えながら見た夕方の車窓の風景は、久しぶりに色鮮やかで、どこか躍っているように見えた。
役者たちは誰も本当にすばらしかった。
彼らの未来に必ず、多くのステキな舞台が待っていることを、ファンの一人として心から願っています。
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