「桜姫」 (2009年6月29日 at シアターコクーン)
原 作 鶴屋南北
脚 本 長塚圭史
演 出 串田和美
出 演 秋山菜津子、大竹しのぶ、笹野高史、白井晃、中村勘三郎、古田新太 他
■だって、「脚本 長塚圭史」だもん
コクーン歌舞伎、今回で10回目とか。勘三郎+串田のコンビで、「歌舞伎を斬新に企画」という趣旨で、結構人気を集めている。
私自身は最初の「東海道四谷怪談」だけ観ている、という不真面目な観客(だって、いろいろ観たいものがあるなかで、コクーン歌舞伎のチケットは安くないし~)。今回も、どうしても観たい!と思ったわけではなく、「長塚圭史脚本」に惹かれて。だから舞台が観にくくてもいいや、とコクーンシート(5000円)を購入。そんないきさつ。
それから、2か月にわたって、歌舞伎狂言「桜姫東文章」を現代劇と原作を上演するという企画もおもしろいなと思ったし(7月はコチラ)。
その昔、片岡孝夫+坂東玉三郎のコンビでこれを観たことがあった。奇想天外な物語の筋と悲惨な運命をたどる桜姫ではあるけれど、桜姫と白菊丸(今回の舞台では、マリアとジョゼ)二役を演じた玉三郎の美しさとそのしたたかさに魅入ってしまった記憶だけが…。 この演目、かなりエロな場面もあり、顔を赤らめた記憶もあります。
■不覚にも(笑)笹野高志
このタイトル、どうなの?とも思うんだけど、本当に「不覚にも」だったのだ。
この笹野高志という役者、なんの恨みもないんだけど(あたりまえだ)、昨今バラエティーに出始めてからのキャラがどうにも苦手で(だって、乗っている車がポルシェとか言って、全然似合わないうえに何か勘違いして感じが悲しいというか、むかつくというか)。
だけど今回の舞台では、そう「不覚にも」いいなあ、と思ってしまったのだ。マリア+ジョゼというヒロインを演じる大竹しのぶとともに狂言回し的な役割を担っているんだけれど、その軽妙洒脱な感じ、長塚脚本の膨大なセリフ量にもかかわらずスピードをあげてもセリフがムリなく届くテクニック(なかに、ちょっと聞こえにくい役者もいたもんだから)、そのうえかっこよくトランペットまで演奏しちゃって(ブログを見たら、特技だそうで。基本的に楽器を演奏できる人にヨワイ…)。
役柄としてはとくに印象に残るものではないのだが、ブツブツと途切れるストーリーをオシャレにつないでくれたようにも思う。ホント、悪くなかったです。
■やっぱり不気味、古田新太
「LAST SHOW」での狂気の演技が忘れられない。何よりもそれが観たいがために再演を熱望しているというくらい。 私にとっては、そこにいるだけで気味が悪く、近寄りたくない存在。それがたまらない。
今回はそれほど不気味ではなかったけれど、声のトーンのゆるやかさ、アドリブともマジ演技とも見分けのつかない軽さ、それが十分魅力になっていた。
■スピードと躍動感の演出?
串田和美氏(今知ったけど、この人って串田孫一の息子なんだ~。これ常識ですか?)の演出はスピード感にあふれ、なんだか出演者がいつも駆け足でいるような印象。
コクーンシートだったため、常に斜め上方から舞台を見下ろしていたのだが、演者が舞台装置を移動させたり舞台転換を担ったりする感じが機械化されたみたいにきれいでスピーディーで(笑)。
串田さんの演出は「ゴドーを待ちながら」をはじめ限られた登場人物による芝居しか観たことがなかった私のようなシロウトにはちょっとした刺激だった。
「いとこ同士」もシンプルだったし(と思ったが、これは役者として出演されたのであって、演出は別の方でした)。
その雑多な感じを狙ったのか、あるいは今後再演を重ねることで整理すべきところもあるのか、そのあたりは私にはわからないけれど。客席にパンを配ったり、遊びの要素は多々ちりばめられていた。
ステージは奥行きがあって(上からはそれがよくわかる)、ステージわきの階段席は芝居が始まると移動して、本来の正面客席を対面するような仕組み。シアターコクーンでの芝居は、ステージの設定のしかたが予想できなくて、これもおもしろい。
鶴屋南北っぽい原作のストーリーのおもしろさ、奇想天外な進行に、長塚さんは人間の奥底の二面性を交差させて、人の業のようなものを描きたかったのか。善人セルゲイも悪人ゴンザレスも結局はマリアに踊らされていただけなのか。そんな感想も(これはある意味、歌舞伎の原作にも通じるか)。
■いつもながら達者な…
大竹しのぶさんの華には圧倒されます。
ただマリアがお嬢さんのときと娼婦に身をやつした(こういう言い方はOKなんだろうか)ときの差がそんなに際立たないのは、たぶん彼女の責任ではないんだろう。
歌舞伎の桜姫の豹変は、あの衣装や設定の妙味とあいまってほんとうにドキドキするくらいおもしろいのだけれど、現代劇で言葉遣いやキャラが変わっても、私たちはもうそれほど驚いたりしなくなっているかもしれないし。
マリアの悲劇としたたかさは鮮やかなのだが、「世間知らずのお嬢さん」の部分はあまり迫ってこないからか。
勘三郎のゴンザレスはイヤな男なんだけど(笑)、もうちょっとチャーミングなところがないと、心が添えない私です。これは私の見方に問題があるのか。
白井晃演ずる心清らかなセルゲイは結局、自分の過去にとらわれている勝手な男で、そういうふうに思うと、どうも疑いのまなざしで見てしまう彼の演技はOKだったんだろう。秋山菜津子は華もあり、コミカルな中に悲しさもまじえて、なかなかステキだった。
いつになく(いつもながらの?)脈絡のない文章になってしまいました。たぶん私自身がまだ咀嚼しきれていないのでしょう。感想もすべて。
すでに千秋楽を終え、シアターコクーンでは原作の歌舞伎狂言「桜姫」が上演されているはずです。
原 作 鶴屋南北
脚 本 長塚圭史
演 出 串田和美
出 演 秋山菜津子、大竹しのぶ、笹野高史、白井晃、中村勘三郎、古田新太 他
■だって、「脚本 長塚圭史」だもん
コクーン歌舞伎、今回で10回目とか。勘三郎+串田のコンビで、「歌舞伎を斬新に企画」という趣旨で、結構人気を集めている。
私自身は最初の「東海道四谷怪談」だけ観ている、という不真面目な観客(だって、いろいろ観たいものがあるなかで、コクーン歌舞伎のチケットは安くないし~)。今回も、どうしても観たい!と思ったわけではなく、「長塚圭史脚本」に惹かれて。だから舞台が観にくくてもいいや、とコクーンシート(5000円)を購入。そんないきさつ。
それから、2か月にわたって、歌舞伎狂言「桜姫東文章」を現代劇と原作を上演するという企画もおもしろいなと思ったし(7月はコチラ)。
その昔、片岡孝夫+坂東玉三郎のコンビでこれを観たことがあった。奇想天外な物語の筋と悲惨な運命をたどる桜姫ではあるけれど、桜姫と白菊丸(今回の舞台では、マリアとジョゼ)二役を演じた玉三郎の美しさとそのしたたかさに魅入ってしまった記憶だけが…。 この演目、かなりエロな場面もあり、顔を赤らめた記憶もあります。
■不覚にも(笑)笹野高志
このタイトル、どうなの?とも思うんだけど、本当に「不覚にも」だったのだ。
この笹野高志という役者、なんの恨みもないんだけど(あたりまえだ)、昨今バラエティーに出始めてからのキャラがどうにも苦手で(だって、乗っている車がポルシェとか言って、全然似合わないうえに何か勘違いして感じが悲しいというか、むかつくというか)。
だけど今回の舞台では、そう「不覚にも」いいなあ、と思ってしまったのだ。マリア+ジョゼというヒロインを演じる大竹しのぶとともに狂言回し的な役割を担っているんだけれど、その軽妙洒脱な感じ、長塚脚本の膨大なセリフ量にもかかわらずスピードをあげてもセリフがムリなく届くテクニック(なかに、ちょっと聞こえにくい役者もいたもんだから)、そのうえかっこよくトランペットまで演奏しちゃって(ブログを見たら、特技だそうで。基本的に楽器を演奏できる人にヨワイ…)。
役柄としてはとくに印象に残るものではないのだが、ブツブツと途切れるストーリーをオシャレにつないでくれたようにも思う。ホント、悪くなかったです。
■やっぱり不気味、古田新太
「LAST SHOW」での狂気の演技が忘れられない。何よりもそれが観たいがために再演を熱望しているというくらい。 私にとっては、そこにいるだけで気味が悪く、近寄りたくない存在。それがたまらない。
今回はそれほど不気味ではなかったけれど、声のトーンのゆるやかさ、アドリブともマジ演技とも見分けのつかない軽さ、それが十分魅力になっていた。
■スピードと躍動感の演出?
串田和美氏(今知ったけど、この人って串田孫一の息子なんだ~。これ常識ですか?)の演出はスピード感にあふれ、なんだか出演者がいつも駆け足でいるような印象。
コクーンシートだったため、常に斜め上方から舞台を見下ろしていたのだが、演者が舞台装置を移動させたり舞台転換を担ったりする感じが機械化されたみたいにきれいでスピーディーで(笑)。
串田さんの演出は「ゴドーを待ちながら」をはじめ限られた登場人物による芝居しか観たことがなかった私のようなシロウトにはちょっとした刺激だった。
「いとこ同士」もシンプルだったし(と思ったが、これは役者として出演されたのであって、演出は別の方でした)。
その雑多な感じを狙ったのか、あるいは今後再演を重ねることで整理すべきところもあるのか、そのあたりは私にはわからないけれど。客席にパンを配ったり、遊びの要素は多々ちりばめられていた。
ステージは奥行きがあって(上からはそれがよくわかる)、ステージわきの階段席は芝居が始まると移動して、本来の正面客席を対面するような仕組み。シアターコクーンでの芝居は、ステージの設定のしかたが予想できなくて、これもおもしろい。
鶴屋南北っぽい原作のストーリーのおもしろさ、奇想天外な進行に、長塚さんは人間の奥底の二面性を交差させて、人の業のようなものを描きたかったのか。善人セルゲイも悪人ゴンザレスも結局はマリアに踊らされていただけなのか。そんな感想も(これはある意味、歌舞伎の原作にも通じるか)。
■いつもながら達者な…
大竹しのぶさんの華には圧倒されます。
ただマリアがお嬢さんのときと娼婦に身をやつした(こういう言い方はOKなんだろうか)ときの差がそんなに際立たないのは、たぶん彼女の責任ではないんだろう。
歌舞伎の桜姫の豹変は、あの衣装や設定の妙味とあいまってほんとうにドキドキするくらいおもしろいのだけれど、現代劇で言葉遣いやキャラが変わっても、私たちはもうそれほど驚いたりしなくなっているかもしれないし。
マリアの悲劇としたたかさは鮮やかなのだが、「世間知らずのお嬢さん」の部分はあまり迫ってこないからか。
勘三郎のゴンザレスはイヤな男なんだけど(笑)、もうちょっとチャーミングなところがないと、心が添えない私です。これは私の見方に問題があるのか。
白井晃演ずる心清らかなセルゲイは結局、自分の過去にとらわれている勝手な男で、そういうふうに思うと、どうも疑いのまなざしで見てしまう彼の演技はOKだったんだろう。秋山菜津子は華もあり、コミカルな中に悲しさもまじえて、なかなかステキだった。
いつになく(いつもながらの?)脈絡のない文章になってしまいました。たぶん私自身がまだ咀嚼しきれていないのでしょう。感想もすべて。
すでに千秋楽を終え、シアターコクーンでは原作の歌舞伎狂言「桜姫」が上演されているはずです。