2015.12.15(火)
■最近・・・
朝刊の一面に新国立競技場の新案2つ。
どうとかって、別に比較するつもりも、正直あんまり興味もないんだけれど。
軽薄に口をすべらしたり、反省の気持ちも込めて?頭を丸めたとか、「もうちょっと早まればラグビーも間に合ったのに・・」とかまだ言っている森氏がトップにいる限り、オリンピック自体応援する気にはなれないな、などと、相変わらず「大人げないワタクシ」です。
(ま、「応援」なんて偉そうなことを言ってしまいましたが・・)
いろいろ仕事の仕組みや流れが変わって、大昔ほど年末に追われることはなくなったはずなのに、今年はなんだかヘンだなあ。
あと2つ残っているライブ、行けるかな。
行けたとしても、レポ書けるかな。年明けちゃうかな(でも、見に来てくださいね)。
■同性カップルと別姓
・・・は、もうすでに私には自然。たった1組だけれど、その彼女たちを見ていると、あ、それも一例と思える。
異性間のカップルにもそれぞれの空気があるのと同じだなと。
若い世代の人たちは少し違うかもしれないけれど、どこか女性のほうが親や関係者との付き合いが得意そうで、男性はちょっと蚊帳の外的な流れがあることもある。それは積もり積もると、女性の中にもストレスになったり。
「なんで、いつも私なのっ!」とか。
でも同性だと、そういう垣根が低いこともある。
彼女たちはそれぞれの親を等しい距離で見ている。こっちも親もあっちの親もおんなじ・・・というように。
親たちも、相手が女性だからなのか、娘に言えないことをもう一方の女性に話せたり。
でも、こういうのって、同性カップルだから、とかそういうのではなく、彼女たちがそういう雰囲気をもった人たちだからなのかな。
そう考えると、もういろんな2人がいて、いろんな道があって、それぞれの未来に歩いていくことだけが重要なんだという気がしてくる。
私生活も仕事もともに歩んできて(いっしょにお店を経営している)、深いところでつながっていて、オープンで愉快で・・・。これは彼女たちの素質でもあるだろうけれど、口には出さないところで闘って勝ちえたものなのかもしれない。
そう思うと、「これも一例ね」とか、気軽に言ってしまう私は馬鹿者かもしれない。
でも、安定した一例は、見ていて気持ちいいのです。
それに比べたら、別姓の問題は、ハードルは軽いような気がする。
もともと姓にこだわりも執着もない私のような人間は楽だけれど、そうではない人たちにとって、選べないこと、変えることが当たり前のように扱われることへの苦痛や虚しさは、想像に難くない。
姓を選べることは、基本的なことだと思う。
私の友人は、離婚後、自分だけ旧姓に戻り、当時小学生だった息子には選ばせて、彼はそのまま父親の姓を名乗った(変えるのが面倒くさいという理由だったと思う)。
その後、母と息子は同居し、母が急逝するまで、言いたいことを言い合える風通しのいい親子関係を続けた。
もともと、「いろんな人がいるんだから、想像力たくましく生きていけ」だけが教育方針だった彼女に育てられた息子は、実際には母と姓が異なることで乗り越えなければならない葛藤や生きにくさはあったのかもしれないけれど、それを私たち周囲の者に気づかせることなく、今も風のように生きている。
空にいるであろう、わが友人は、安心しているだろうか。それとも、母の目で、自分が押し付けたかもしれない何かを、気にしているだろうか。
だけど、姓より重いものがあることだけは確かだよね、そういつか彼女に言えたらいいなと思う。
会えるだろうか。