2018.07.08(日)
西日本の複数の箇所で河川が氾濫したり、土砂災害が続いたり。
テレビの映像で驚いて、知り合いに連絡をとったりして、昨日の朝の時間が過ぎた。
「自然には抗えない」
友人が言っていた。降り方が尋常じゃなかった・・・と。
祈ることは簡単で恥ずかしいくらい見え透いた言葉しか出てこないが、雨がやんで太陽が顔をのぞかせることを・・・。
そこから始まることがたくさんあると思うから。
一夜明けて、ここは爽やかな風が吹く。気持ちよくぐっすり眠れたせいか、すべて快調だけれど、今度は高知あたりに・・・。
どうなってるんだ?
https://donation.yahoo.co.jp/detail/1630036/
■ パネルか
松本死刑囚らの死刑執行。
重いテーマをこんなところで語ってはいけないか。
複数の死刑執行が行われたにしては、法務大臣の説明はあまりに大さっぱすぎる。
死刑ではなく、「正真正銘の無期懲役」で生き長らえて、犯罪のことを熟考し私たちにわかる言葉で説明する罰を背負い続けて「生きる」ことの意味も、選択肢として考えられる世の中を生きていたい。死刑制度の是非も論じたい。
被害者家族の方々の受け止め方もさまざまだ。だからもちろん刑の重さは、被害者家族の気持ちに寄り添うようにそれを満足させるものである必要はない。
今回の執行で、「これしかない」と受け止めざるを得ない人もいれば、知りたい気持ちが向かう先がなくなってしまったと落胆する人もいるのだから。
あの頃のショー化した報道に辟易しながらも、多くの若者が、それも「超インテリ」と思える幹部たちがなぜこの集団の犯罪を担い、一人の男に追従したのか(「追従」という言葉で表現できるものではないが)。
私なりの興味でいろいろ読んだりしたけれど、やっぱりわからないことだらけだった。宗教の自由と許せない暴走の境目さえも見えてはこない。
それにしても、ふだんの事件や政治問題を解説する際のパネル合戦を、今回の死刑執行の報道の際にも繰り広げたテレビ局の、あの「センスのなさ」は恥ずかしいばかり。
あえて「センスのなさ」などという軽い言葉で、私は彼らを切り捨てる。
リモコンでオフにしながら、かつてとても不愉快な思いをして二度とこの番組を見ることはないと決めたのに、なんで?と間抜けな自分をあざ笑いながら、昨日の朝、出かけるしたくを始めたのです。
■ 『美しい顔』
http://book-sp.kodansha.co.jp/pdf/20180704_utsukushiikao.pdf
講談社
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180706_Gunzo.pdf
新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/news/article/1317/
作品をまだ読んでいないのでコメントなし。
ただ、同業者として、編集側の責任は大きいということか。
当時現地を訪れていない作者が多くの資料を参考にしつつ、自身の感性と想像力で作品を作り上げる作業に何の問題もないけれど、発表するのあたっての大きな落ち度は編集側にある?
内容の簡単な紹介とタイトルとの間のアンバランスにとても惹かれて作品を読むのを楽しみにしていたので、この場外戦はある意味、とても残念。