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10月初旬にチューリヒ美術館展@国立新美術館を観たとき、
あまりにたくさんの画家が網羅されていたためか
ガイド的な淡泊さに少々がっかりし、
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汐留ミュージアムで12月26日まで開催されている
「デ・キリコ展」でどっぷり、近代絵画の世界に浸りたーいと
期待も大きく、出かけていった。
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ブロガー対象の内覧会※も行われたらしく、
すでにたくさんのブログで紹介されていますが……。
キリコといえば、メタフィジカ(形而上形式)。
でも未だに私は、絵画における形而上の意味は、わかったようでいて
わかっていない。
どちらかといえば、同時代の詩人アポリネールが称したという
「デペイズマン」-無関係な事物を異なる文脈の中において、途方に暮れさせること
の方が、キリコの作風を明確にとらえているのではないか、などと思ったり。
途方に暮れる。
絵を観る側にとって、こんなに気楽なことはない。
芸術だからといって、さぞ物分りが良い風な気になり、意味づけしようとしなくても
いいのだ。
途方に暮れたとき、自分にどんな感情がわき起こってくるか、
その素直な思いを味わう方が、よほど心を豊かにする。
キリコといえば……
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こーんな、顔のない人だったり(「吟遊詩人」(1955年))
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こーんな、脈絡の感じられないモノの配置だったり
(「謎めいた憂愁」(1919年)。胸像のモデルはアポリネールとされている)
…が、美術の教科書等では有名だけれど
今回、私がもっとも「途方に暮れた」のは
↓
↓
↓
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「田園風景のなかの静物」(1943-48ごろ)。
キリコは1910年代に形而上絵画を一度確立したが、
その後(おそらくパリ・ダダの終焉とともに)古典主義に帰ってしまう。
これはその時期の作品で、
上の、よく見るキリコの絵とはずいぶん、タッチが違う。
でも、遠近法もおかしいし、「なぜこの風景にこの果物?」と
いったところがどうにも謎過ぎて
私は笑いをこらえきれなかった。
一度観て、また戻る。出口近くまで行って、また引き返して観てみる。
美術展で、こんなに可笑しな気分になったのは、初めてだ。
この絵は、写実主義と呼ばれるクールベの、1871年の静物画が
もとになっている。
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うむー。これがどうして
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こうなるのか。
そんなキリコも、1950年代以降は
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(「城への帰還」制作年不詳ですが、晩年の作品)
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(「燃えつきた太陽のあるイタリア広場、神秘的な広場」(1971年))
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(「オデュッセウスの帰還」(1973年))
と、形而上絵画へ戻ってくるが、
このころのスタイルは「ネオメタフィジカ(新形而上)」と呼ばれ
初期のころとはまた作風が違う。
例えば上の「城への帰還」は
常識的な?感性を持っていれば、黒くギザギザした騎士はいかにも
不思議な、不気味な存在だけれど、
騎士から見れば、
自分にとってオーディナリーではない世界に放り出されて
途方に暮れている、とも受け取れる。
こんな風に、なんとなく
概念の対比ができてしまう作品が、晩年には多かった。
90歳まで生きて、20世紀を代表する画家と称賛を浴びているのに、
彼は晩年のインタビューで
「自分のことなど、何も話して面白いようなことはない」と発言している。
(正確ではありません。確か、毎日決まった生活をして、たまに外で食事したり旅行したり
して、変わり映えがしないので、話すほどでもない、といったニュアンス)
かと思えば
「私の作品が理解できるのは、世界で2、3人しかいない」という発言も。
妻のイザベラは、おそらくその一人。
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(「赤と黄色の布をつけた座る裸婦」(制作年不詳))
絵のモデルにも。
シャガールにしろ、ダリにしろ、このキリコにしろ、
画家の芸術性を良く理解しているパートナーがいると、
画業を長く続けられるのかしら、と、ふと思う。
愛する人が、自分の芸術を判っていてくれさえすれば、
何も外へ語らずとも、信念を突き通せる。そんなものなのかも知れない。
※デ・キリコ展の公式サイトはコチラ。
※ブロガー内覧会は、ご存知の方も多いと思いますが、ブログやツイッター、SNSの
アカウントを持っている人を対象に開催される鑑賞会で、多くは先着順で招待されます。
入場料やイベントの有無、撮影の可・不可は、会ごとに違うようです。