この構想は、実は3年くらい前から温めていました。
お題は……
1983年3月に書いた日記。
少し長いですが、こんな内容です。
-------------------------
1983年3月13日
(前略)おととい、とうとう親のみつからなかった中国の残留孤児が
帰ってしまいました。
彼らの失意に満ちた言葉に涙が出ました。
「親は私を見捨てたのか」「名前だけでも知りたい」
今はもう若くて38歳、平均42歳の人々はずっと傷を負ってゆきます。
自分を支えてくれる人がいないなんて、心細いことでしょう。
自分がここで生きている限り、必ず親はいるはずなのに…
それとも、もう死んでしまったのか…どちらにしろ、悲しいことです。
戦争さえ起こらなけりゃ…!
今日、FMでユーミンも話してたけど、
武器同士の争いより、人間の精神面の争いの方がこわいって…よくわかります。
ユーミンの話には、いろいろ興味深いものがありました。
何かの占いによって、彼女は、生前自分が“ダット”という名の男性だったということを
知ったんですって。ん、わかるような…もっとさかのぼると、
ユーミンは、もとは縄文人だった、というんですよ。
弥生人に滅ぼされ、数少ない縄文人…
情熱的で神秘的な彼女にピッタリ。
最も印象に残ったのは、「生き別れも、死別も、そんなに悲しい別れじゃない。
一番つらいのは、時間を隔てたために会えない、ということ」という言葉。
例えば私が、マリーアントワネットの時代、スウェーデンの士官で、
王妃と熱烈な関係になる、フェルナンを好きになったって、
思いを伝えるのは不可能…
(後略)
------------------------
「で、ここから自由にイメージをふくらませて
いただいて」
帯を創っていただきたいのですが……。
今年の3月、
フェイスブックで、おそるおそる、染色家 仁平幸春さんに
ご相談を持ちかけました。
デザインのひな形があるわけではなく、
ゼロからの制作、
まして、文章から絵を起こしていただく、という
一般的に考えれば面倒な、パワーのかかるオーダー。
だから、ほどなくして彼から
「それは面白いですね!」と返事がきたときに、
どれだけほっとしたことか。
仁平さんと、工房スタッフの甲斐さんと。
文章で物語を書くのはごく真っ当な行為。
でも、
文章からヴィジュアルをつくるのは、絵心のない私には無理。
それでも、
抽象的なことがらを、「絵(帯の柄)」という目に見える形に
することは、実はずっと前からやってみたかったことの一つでした。
(逆に、具象的なものを、抽象的にリモデリングすることには
私は興味が向かず……)
そして、こういう試みにのってくださるのは
仁平さんしかいない、と……。
仁平さん作の、この染額を初めてみたのは、
もう8、9年前になるでしょうか。
仁平さんといえばこの作品、というくらい
私にはインパクトがあって。
この世界観を
今の自分ではない、良く言えばピュア、悪く言えば世間知らずの
15歳の自分が書いた文章から創れないものだろうか。
きっと、同じお誂えでも、
今の自分があれこれ口を出してコンセプトをつくるより
面白いものができるのではないだろうか-というのが、
昔の日記を題材にした理由です。
-------------------------
「まあその、15歳独特の夢見がちな、青っぽい部分は
無視していいですから」
そんな、文章全部を使わなくていいんです。
ここから、仁平さんが勝手にストーリーを
創ってくださっても構いません。
……などといいつつ、打ち合わせ。4月下旬のことです。
とはいえ、創るものは「帯」ですから、
帯として映える、使えるものにするための条件はあります。
それに関して
最初の打ち合わせで、仁平さんから聞かれたこととは……?
続きは次回に書きますね。
コメント一覧
神奈川絵美
朋百香
神奈川絵美
神奈川絵美
香子
K@ブラックジャック
最新の画像もっと見る
最近の「「優しい月(ふたつの花)」(ユーミンのラジオから)お誂えの記録」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2009年
2008年
人気記事