勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
振り返りながら 日々の生活も綴ります

空海漂着の地、福建省福州

2020-08-23 | 歴史・文化

空海を乗せ出航した第16次遣唐使船4艘は、途中暴風雨に遭い、うち2艘は消息を断ち、空海の乗った第一船は漂流した後、1ケ月海を漂い、804年8月10日に福州長渓県赤岸鎮己南ノ海口(福建省福州市から北へ約250キロに位置する海岸)にようやく辿りついた。

やっとの思いで唐に辿り着いたものの、帆は破れ舵は折れて、九死に一生の状態で福州の近くの赤岸鎮に着岸したが、あまりにもみすぼらしい状態であったこと、国書など身分を証明となるものを所持していなかったことから、日本の遣唐使船であることが信じてもらえず海賊と疑いをかけられたり、あまりにも僻地のため赤岸鎮の役人には上陸の申請もできず、その後、長渓県の役所まで行き、県令の胡延泝に面会するもここでも「対処できない。福州の役所へ行ってくれ」と言われ、空海をのせた第一船は、この後、赤岸鎮から追われるようにして福州の観察処置使・閻済美(Yan ji měi)のところへ向かうことになった。

遣唐大使・藤原葛野麿が福州長官に弁明書を提出したが相手にされなかったことで、空海が遣唐正使に替わって「大使の福州の観察使に与ふるが為の書」を代筆している。この文の書体、文体、表現法が福州長官・閻済美を感動させ、遣唐使として長安に向かうことが許可された。しかし、なぜか、この一行に空海の名はなかった。空海は、さらに福州・開元寺にとどまり、今度は自分のために、長安に上京できるように再び「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出して許され長安に行くことができた。 やっと11月3日に長安へ向かい出発した。8月10日の赤岸村到着から数え、84日後だ。こちらの弊ブログ、及び、こちらの「空海」入唐求法の項  陳 舜臣著の曼荼羅の人 空海求法伝など

福州市の開元寺は、福州市に現存する最古の仏教寺院の一つで、鼓楼区开元路に位置している。

0
1

549年(南朝梁太清3年)に建設され,当初は『大雲寺』と名づけられ、唐代初期では『竜興寺』と呼ばれたが、738年(唐代開元26年)に玄宗李隆基によって『開元寺』と改められた。

開元寺は何度か火災にみまわれ、1979年に修築された後には、鉄佛殿、霊山堂や佛化社などの神殿仏閣が現存している。現在は、鉄筋アパートに囲まれた街中に建っている。2016年7月に探訪した折は、観音殿は改築中だった。

寺境内には、空海入唐之地と書かれた碑があり、空海の像が立っている。

2
3

また、天台寺門宗の宗祖の円珍(智証大師)も、開元寺で修行した(853年~3年間)ようで、寺の沿革に書かれていた。

4

 

5

 

6

 

7

薬師殿と鉄仏殿(高さ約6メートル、重さ5トン以上と言われている金箔の特大鉄仏が安置されており、鉄の鋳造仏としては中国で最も古い918年(五代後量貞明四年)に造られ、現在は福建省の重点文物保護単位に指定されていると)

福州・開元寺は仏経典を刻印する寺院として有名であったようで、ここで刊行されたものが日本にも入って来ており、交流があるようです。→日中友好宗教者懇話会

羅漢堂 (沢山の人が法衣を着て、お経を唱えていた)

8

ところで、この開元寺の空海の像ですが、大興善寺(西安)の空海像と、特に、松山の石手寺の空海像とよく似てますね。作者は同じ? →こちらの松山石手寺の像の写真では、金剛講員一同の寄贈のようです
一方、福州・開元寺の像については、人民網によると、1993年に松山市の原田龍元先生が寄贈したと。

 

中国共産党幹部との「日中与党交流協議会」参加のため中国を訪問中の自民党の二階俊博、公明党の井上両幹事長らは2017年12月27日、福建省福州の福州・開元寺を訪問した。

住職から空海と寺のつながりについて説明を受けた、高野山のある和歌山県出身の二階氏は記者団に、「こうしてお参りできるとは思っていなかったから、大変胸が熱くなる」と感慨深げに語った。→朝日新聞などの報道

9

 

10

 

 

トップへ戻る(全体表示)

 

ランキングに参加中。クリックして応援をお願いします。

にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村


最新の画像もっと見る

コメントを投稿