日本古代史最大であり永遠の謎である邪馬台国論争。
邪馬台国の所在地をめぐり、学者の方からアマチュアに至るまでまさに議論百出です。
私も古代史ファンとして邪馬台国関連の書籍を長年に亘って読み続けてきました。そろそろ自分なりの邪馬台国を見つけてみたいと思うのですが、これがまた一向に判りません。
偉い学者の方々が一生をかけて研究されても決定打が出ていないのですから、私に判らないのは当然といえば当然なのですが、いい加減「私は邪馬台国〇〇説を支持します」と言ってみたいのです。
でも現時点では本当に私にはどこだかわかりません。
何がどうわからないのか整理するために、わからない点を思いつくままに綴ってみようかと思います。
対馬国、壱岐国までは問題ありません。
末慮国から既にわからないのです。
末慮国は魏志倭人伝で対馬・壱岐を経由して最初に本土に上陸する地になります。
2007年に唐津市の桜馬場遺跡が再発見され、後韓鏡、銅釧、巴形銅器などが出土し、ここが末慮国の王墓かと言われています。
末慮国の次は「東南に陸行すること五百里、伊都国に到る」とあります。
ここでちょっと待てよ となります。
例えば末慮国=唐津、伊都=筑前国怡土郡だとする場合、壱岐から伊都国へ直接向かわない意味がわかりません。
しかも船をおりて陸行して伊都国へ向かうと言うのですよ。
魏志倭人伝には末慮国の説明として「草木が盛んに茂り、前に行く人が見えない」と書かれており、歩きづらそうなこと、この上ありません。
ますます直行せずに陸行する意味がわかりません。
かと言って、末慮国が寄り道に値するような描写もありません。
では伊都国は、壱岐から直行できない、津に面していない地にあったのでしょうか。
伊都国に津はなかったとの説を採っておられるのが、MRIの世界的権威である中田力氏です。
伊都国には津はなく「皆津に臨みて捜露し」の津とは末慮国、つまり唐津そのものを意味していたというのが氏の考えです。
唐津に着き「東南」に陸行するには、松浦川沿いに佐賀に向かう道が最も自然であるともおっしゃっています。
もし唐津に着き「東南に陸行」するのであれば、松浦川沿いの道しかないと、私も思います。
ただ、伊都国を佐賀方面に比定した場合、例えば糸島市の平原遺跡をどう考えていいのかわからなくなるのです。