平原遺跡1号墓は伊都国王墓と考えられている弥生終末期の方形周溝墓です。
ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は弥生時代としては日本一で、大量の朱も使用されています。副葬品の中に武器がなく装身具が多いこと、中国で女性が身に着ける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることから女性の墓と目されており、卑弥呼の墓であると考える人もたくさんいらっしゃいます。
佐賀方面に伊都国から先を比定する場合、平原に存在していた国が邪馬台国とは関係のない国だったと考えるのでしょうか。
糸島平野・福岡平野周辺に、当時の日本列島の中でも先進的な国々が形成されていたことは間違いありません。
鏡を副葬品の主体とするのは、弥生時代では三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡だけです。
邪馬台国を考える上で、古代遺跡のメッカといえる糸島平野・福岡平野を私は無視できません。
実際に訪れたであろう末慮国より大きな国がすぐ近くにあるにも関わらず、触れてもいない理由は何だというのでしょう。投馬国の記載はあるというのに。
末慮国に上陸して伊都国まで歩いたのは「海の難所、関門海峡を避けたかったから」というのは、陸行する上で魅力的な理由です。
末慮国を例えば宗像~北九州方面に比定して「海路で伊都国に行くには関門海峡を通らないといけないので陸路をとった」と言われれば、ああそうかと納得します。
ただ、この場合も糸島や福岡を無視してしまいますよね。
では伊都国を糸島市と比定してみましょう。
この場合も何故壱岐から直行しなかったのかわかりません。
その上唐津が末慮国であるならば、方向が変です。
方向が違っていることについては多くの場合、
魏の使節が来たのは夏であり夏至の太陽は真東からではなく28度(29度)ほど北から昇る
つまり夏至の日の出の方向を東とするならば、糸島はほぼ南東に位置するのだと説明されます。
う~ん、私には魏の使者が太陽の昇る位置が季節によって違っていることを知らなかったとは考えられません。
今の我々よりずっと敏感かつ正確に太陽や星の位置から方向を見いだせたと考えます。
私は魏の使節は不彌国(あるいは伊都国)までは実際に訪れたと考えます。実際に訪れたのであれば、方向が大きくズレ過ぎています。
もし唐津街道が当時は海中だったとしたら、背振山地を登ったというのでしょうか。
伊都国を糸島とするのであれば、末慮国=唐津が間違っていることになります。
ここで地図を見て唖然とします。
そもそも糸島へ「東南陸行」できる陸地が存在しないではありませんか。
「糸島には平原王墓や三雲少路遺跡があるんやで」
「ほな伊都国やろ」
「せやけど魏志がいうには、伊都国は末慮国から東南に陸行するねん」
「ほな伊都国ちゃうか。糸島なら唐津から東南ちゃうし、壱岐から直行しよるわな」
私の頭の中ではミルクボーイの漫才さながらのやり取りが繰り広げられ、かくして私の邪馬台国への道は末慮国や伊都国の地点から、早くも閉ざされてしまうのです。