【からはだふくらか】と関係のあった方がすべて
死ぬその時まで快い身体になって 愉しく悦びにあふれた毎日を過ごしていただき わたしは豊かな暮らしをすることができます。 ご縁に感謝したします。
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論語っていうのは、江戸時代などでは必読の書とされていました。
寺子屋とかで読んでいたのは、大抵これです。
中でも有名なのが
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
【
という部分かと思います。
特に四十の部分は「不惑」という単語にまでなっているので、最も有名な一説ではないでしょうか。
論語ってのは、孔子が「仁」というものを説いたもの、なんだそうです。
「仁」は、その為に儒教では最高の徳とされます。
人を思いやる心、慈愛、のことだそうな。
確かに大切ですね。
敬老とか、親を敬う、目上を敬う、なんてのも儒教の教えです。
大事なんですが、学年による上下関係なんてのは、これの歪んだ形とも言えるかと思います。
先生、という言葉も別に、先に生まれた人っていうことで、それ自体が偉い理由にはなりませんよね。
早かろうが、遅かろうが、生きているということに優劣の付けようはなく、どちらも等価だと思います。
じゃなければ、私たちは縄文人、弥生人にどうしたって敵わないってことになりますからね。
それはそれで否めないでもありますが。
そういうワケで、日本でも儒教思想は浸透していますが、韓国はもっと厳格のようですね。
ただ、この『論語』、孔子が書き留めたものではなく、没後、500年も経ってから編纂されたのだそうです。
大事なことを教えてくれてはいますが、かなり説教臭い、という部分もあるようです。
その『論語』をロルフィングという身体を整える方式の専門家であり、能楽師でもあるという著者が、身体感覚と、孔子の時代の文字を考証しながら、解説をしてくれています。
論語を身体感覚で?
と言うと不思議に思われるかもしれませんが、「読書」という習慣は長らく、声に出して読むことを意味していました。
読書≈黙読ではなかった時代の方が長いんです。
黙読が無かったという意味ではありませんよ。
今は読書≈黙読ですが、昔は読書≈音読だったということです。
詩や歌、俳句とか短歌なんかは正にそういう文学ですよね。
それは、元々、言葉というものが口から発し、耳で聞くものである、という認識だったからですね。
『論語』が500年、編纂されなかったように、それまでは文字ではなく、口伝え、が一般的だったわけです。
『古事記』も稗田阿礼たちが編纂するまでは口伝えされてきた話だったと言われていますね。
物語っていうのも、語りを聞くことを前提とした言葉です。
それくらい、言葉というのは身体と密接なものだったんです。
書き文字というのも、身体運動なので、密接なものではあるんですが、言葉の方がより、ということですね。
言葉というものが一体いつから生まれたのかは知りませんが、言霊とか言われるくらい、力のあるもの、呪力があるもの、とも考えられてきました。
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『ゲド戦記』で名前に非常な力を認めたりだとか、『陰陽師』でも安易に鬼に名前を教えることで源博雅が術に嵌まったりしてます。
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落語家や、歌舞伎役者が襲名といって、名前を継いだり、戦国時代の武将が名前を変えていったように、戸籍の無かった昔は、名前を変えることも一般的でした。
幼い頃の死亡率が高かった時代は、悪霊が子供を迎えに来ないようにと、本名とは別に、わざと汚い名前で呼ぶ、何てこともありました。
糞とか垢とかを使ってね。
ここからやっと、表題にした「心」の話に入ります。
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