たそがれトンボ

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梅干半十郎観音のお話

2008-05-22 | 観光編、丹波、福知山
ひょんなきっかけにより
知った地元の実話、昔話です。

今度桂三枝さんが
落語にしてくださるそうです。


【梅干し半十郎の話】

江戸時代末期
福知山市城主朽木十二代目藩主・綱張の頃、
全国的な凶作、飢きんとなって福知山藩の財政は
大変苦しくなったそうです。

そこで家老、市川儀右衛門は町民・百姓に対し、
12ヶ条の倹約令を敷きました。

倹約令は非常に急で過酷なものだったので、
とうぜん町民・百姓から不平不満が出ました。


 同じ頃、福知山の松本屋銀兵衛という親分の元で居候する、
松岡半十郎と西郷新太郎という用人棒がおりました。

彼らは福知山を離れる際、町人に無理難題を押し付ける
市川にひとあわふかせてやろうと
当時産物穀物類の一切を統制売買し巨利を得ていた
藩制定の問屋、福知山藩産物会所に押し入り、
宿直の男二人を殺害して金を奪い、
そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。



しかしあえなく捕えられ
厳しい取り調べを受け、西郷新太郎は獄死、
半十郎は町中引き廻しの上、
福知山和久市三昧(ざんまい)の仕置場で打首となりました。

その際、辞世の歌として
「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)
は目の前」と残したそうです。

 処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、
一寸八分(約5cm)の観音様を飲み込んで

「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、
首から上の病気は必ず治してあげよう」

と言い残してこの世を去りました。



その後、義賊として和久市に祀って以来、
大勢の人が詣り、信仰を集め
梅干しの絶えない祠となりました。



この事件がきっかけとなり
四十八日後に
百姓一揆「市川騒動」が起こりました。



資料もしらべましたが
多くは祠にある立札を参考にしています。

現在三昧(ざんまい)という場所はありません。
たぶん三昧場の略、死者の冥福を祈る墓地に近い場所ということなので
処刑場のことでしょうか。




地域発信
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