・ ところで元来宮迫の地は、四代経見以来の吉川氏の直轄領で、「江田氏系図」(岩国吉川家蔵)
によれば、七代経基の五男経久は駿河国有度郡江田村の江田家を相続して、「江田氏」を
称し、経久→経直→経通→経勝→春勝と代々宮迫に居城した。
春勝のとき、広家に従い、出雲に移りさらに岩国に移った。(なお「江田」はときに「郷田」
の文字を用いている。
そして経久の嫡子経直は、天文十六年(1547)八月二日に、又彼の跡を継いだ経通は天文十九年
十月二日に、それぞれ小倉山において自刃した。 「(陰徳太平記)に詳しい。」
・ したがって経久以後の宮迫は江田氏の所領であり、その領内にまつられた「薬師如来の尊像」
にまつわる「善慶禅尼」はやはり吉川一門の「江田氏」に関係した人が考えられる。
つまり考えられるのは江田経久の娘あたりではなかったか。
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以上が故久枝秀夫氏が書かれた宮迫薬師の考察文である。
によれば、七代経基の五男経久は駿河国有度郡江田村の江田家を相続して、「江田氏」を
称し、経久→経直→経通→経勝→春勝と代々宮迫に居城した。
春勝のとき、広家に従い、出雲に移りさらに岩国に移った。(なお「江田」はときに「郷田」
の文字を用いている。
そして経久の嫡子経直は、天文十六年(1547)八月二日に、又彼の跡を継いだ経通は天文十九年
十月二日に、それぞれ小倉山において自刃した。 「(陰徳太平記)に詳しい。」
・ したがって経久以後の宮迫は江田氏の所領であり、その領内にまつられた「薬師如来の尊像」
にまつわる「善慶禅尼」はやはり吉川一門の「江田氏」に関係した人が考えられる。
つまり考えられるのは江田経久の娘あたりではなかったか。
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以上が故久枝秀夫氏が書かれた宮迫薬師の考察文である。