写真=59年2月26日、商調法に反対し国会まえに雪の中座り込む生協の代表(「現代日本
生協運動史」から)
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60年前の“60年安保”のことをこのブログに書いたが、もうひとつの60年前の国会周辺の出来事として生協の“2・26行動”のことを書いておきたい。
正確には61年前の1959年2月26日であるが、日本生協連は生協の規制強化をうたう小売商業調整特措置法(商調法)の成立を阻止するため、国会構内の旧参謀本部跡地にテントを張り、早朝から座り込みのデモンストレーションを行った。当時、学生で大学生協東京地連の理事だった私は数人の仲間とこの活動に参加したが、戦前の2・26事件の時のように雪が降り、日本生協連の理事を中心に全国の代表たちは寒さに耐えながら、交代で国会内の各政党、議員に陳情活動を繰り返していた。が、初めて国会構内に入った学生には状況は分からず、先輩たちの話をきいていた。国会では奥むめおさん(参議院議員、日本生協連副会長)が頑張っているとか、元国務大臣の石黒武重さん(東協連会長、日協貿社長)も来ているとか聞いて、私は奥さんや石黒さんが大変偉い人であり、そんな人が頑張っている生協は凄いなと思った。雪の降るなか夕方になると先輩たちは交代で新橋方面に食事に行き、寒いテントで留守番をしながら「若い我々は徹夜だ」と覚悟していたが、夜になると解散、撤退となった。
この雪の中の座り込みは当日の夕刊に写真つきで報道され、世論は生協に同情的となり、その後の国会審議にプラスした。許可なしの構内での座り込みも当局は咎めず、黙認した。これも生協の、その先輩たちの凄いところと感心した。商調法では一定の成果があったが、員外利用規制については生協法を改悪する形で規制が強化されることになった。生協規制の動きは労働組合の支援で各地に設立された地域勤労者生協が発展を見せた1950年代中ごろから始まり、規制反対の取り組みは生協だけでなく、日本生協連が総評や主婦連などと56年に結成した全国消費者団体連絡会(全国消団連)も当初から取り組んでいた。地域勤労者生協は大型セルフ店を出店するなど元気な地方もあり商業者を刺激したが、全体的には事業的には失敗するところが多く、日本生協連はその対策に追われていた。
この2・26行動で「生協は凄いなあ」と思った私は、卒業後も生協に残ることを最終的に決め、翌60年、日本生協連の試験を受けた。その日本生協連は「総会で年度予算が決まらないと最終決定できない」というので私は卒論の提出をやめ留年、大学生協の役員として6月までの任期を務めることにした。日本生協連が職員一人を採用するのに総会での決定が必要という、そんなに貧乏団体だということには「凄いなあ」と思いつつ、前回書いたように6月の総会には傍聴者として参加、予算等の議案の無事可決を喜びながら、総会参加の皆さんと一緒に安保反対の国会請願デモに参加した。
余談①―8月から日本生協連職員となった私の給料は卒論保留で卒業していないため「高卒資格だが、学生時代の生協経験を特別に認め短大卒待遇にする」と優遇?された。私の入所で日本生協連の常勤者が役員を含めはじめて10人を超えた年であり、地域勤労者生協の倒産が続き新しい地域生協の誕生などの動きはまだどこにも見えない60年前だった。
余談②-この間、毎月の19日行動で国会周辺に行くようになってから「あの時のテントを張った場所はどこだろうか?」と元参謀本部跡を探すが分からない。当時は国会の構内と構外に今のような道路と柵で明確な区分がされていなかった記憶である。いずれにせよ現在は勝手にテントを張れそうな場所はどこにも見当たらない。