梅の咲く桃園川緑道(中野、桃園橋近く)
神田川水系の幾つかの川のスケッチはもう終えたはずだった。
ところが桃園川とは縁が深く、また中野で桃園川緑道を描くことになった。
その因縁話① 最初にこの川の源泉だったという天沼弁天池の近くにスケッチに行ったとき、この近くに結婚間もないころに住んでいたことを思い出した(12月30日のブログ)。
因縁話② そこから暗渠になった歩道を阿佐ヶ谷に向かってスケッチしながら下る。
阿佐ヶ谷の中杉通りにちかづくと結婚前に住んでいた下宿のそばだった。
本籍を佐渡から移した場所だ(1月6日のブログ)。
因縁話③ その時から「もしかしたら」と思っていたとおり、旧桃園川が、高校卒業するとすぐに田舎から出てきて転がり込んだ中野の兄の下宿の近くを通っていた。
桃園川緑道はこの絵の先、中野通りを横切ると中野総合病院の前を大久保通りにそって新宿に向かう。
その病院の裏に兄の下宿があった。
因縁話④ たまたま1月から生協OBの絵の会の月1回の会場が新宿の労金から中野の東京都生協連に移った。
そのビルの隣にこの桃園川緑道があった。
毎月一回、仲間とこの近くで絵を描くことになるとは 大変な縁である。
写真上ー緑道を横切っているのは中野通り。
左にいくと新装なった丸井本店と中野駅。
緑道の3分さきに中野総合病院。賀川豊彦創立の生協病院である。
その病院の裏、旧橋場町(現中央6丁目)にわが下宿があり、桃園川の橋を渡って大久保通りに出ていた。
50年以上昔のことで、当時は水のある川だった。
この緑道の左手、大久保通りを挟んで駅方面が50年前の表示では桃園町だった。
江戸時代に高円寺にあった「桃園」が移ってきたと言われる。
川の名前のいわれを知りたくてインターネットで調べたがはっきりしない。
今はかっての桃園や橋場の名は地名でなく、学校や公園、地域センターなどの名となっているようだ。
写真の写りが悪いが「桃園橋」の表札がある。
絵に描いた梅の木はこの橋の右にある。
ここは現在、道路拡幅工事中であり、この昭和初期につくられた橋も作り変えられるようである。
写真の上に「東京都生協連会館」とあるが、このビルはかって大学生協連会館だった。
1階にコープとうきょうの中野店がある。
この因縁の地で月1回は10人ほどの仲間と一緒に絵を描くことになる。
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