風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

万葉集覚書12

2021年07月15日 | 万葉集覚書



 万葉集巻第一は大和朝廷草創期の歴代天皇とその周辺の人々にまつわる歌で始まる。

「大君は神にしませば」という定型のような詩句が至るところに響きあい、全巻の通奏低音ともなっている。「万葉の精神」の精華として喧伝された時代はそんな昔ではない。

「日本書紀」の掉尾巻第三十は、その「神にしませば」と詠まれた代表とも言える持統天皇の巻だが、書紀の平板で硬質な漢文脈のどこを探しても、万葉集にうたわれたような神々しい影は見出せない。

 天皇の伊勢行幸を、農繁期を理由に見合わせるよう、一官僚が職を賭して諫める話が万葉集の左注にも記録されている。万葉集の若々しい天皇制国家を讃える伸びやかな歌の群れの中で、その注は、何か無粋で場違いな余談のような印象を受ける。

 万葉集に引用された元の文章では、書紀巻第三十の筆録者(中国からの渡来人か)の現実主義に溢れた冷静な歴史叙述によって、リアルな時代の姿が浮かび上がる。

命を賭して諫めた忠臣と、それを無視して強行された伊勢行幸。少なからず損害を蒙ったであろう人民に施された事後補償ともいうべき施しについても、書紀はリアルに記述する。

 人麻呂はじめ名だたる歌人が、神話的な修辞と言霊の発露を競い合った吉野行幸や伊勢行幸も、書紀筆録者の手にかかると、イマジネーションのあらゆるヴェールを剥がされ、裸の事実の羅列となる。いわく、いついつ、天皇、吉野に行幸。いついつ天皇、吉野より帰る。誰それに褒賞を与える。この無味乾燥な字句の繰り返し。その中で、先の諫言の話はユニークなエピソードたり得ている。


万葉集覚書11

2020年11月08日 | 万葉集覚書
 大伴家持は国司として五年間、越中国に暮らした。旧国府にほど近い二上山のふもとに高岡市万葉歴史館がある。




 家持は、二上山や立山、射水川、奈呉の海、渋谿など、越中の自然風土を読み込んだ長短の歌を多く残した。都から遠い地に、家族や友人から離れて住み、国司としての仕事にいそしむかたわら、ふと独り言を洩らすように、孤独感をにじませた翳りのある歌を日記のように詠んだ。家持の秀歌として残る「春の苑」の歌や「いささ群竹」の歌などもそのように記録された歌だ。



 二上山のふもと万葉歴史館の屋上庭園から、遠く晩秋の新雪をかぶった立山連峰が霞んで見える。今日の富山県の経済を支える工場の煙もなびいている。



 家持が弟・書持の訃報に接し、こうなると知っていたら「見せましものを」と詠んだ渋谿の有磯の海、今日、雨晴海岸と呼ばれる海は、後世、義経の陸奥への逃避行の経由地ともなり、芭蕉の風雅の旅の歌枕ともなった。




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万葉集覚書10

2020年10月09日 | 万葉集覚書




  万葉集覚書10  〜万葉集巻二十を閉じて〜


 大伴家持の因幡国庁での新年、初春を寿ぐ歌を最後に、万葉集は二十巻に及ぶその全巻を閉じる。その背表紙を閉じた後に、万葉集の草稿を待っていた歴史の深い闇と沈黙とに思いをはせるとき、言いようのない重みをもって、様々な感慨が頁を繰るものに迫ってくる。

 しかし、その深い闇の中から、やがて、覆いようもなく、この列島に生きた有名無名の人々の声がよみがえる。人に恋い、人の死を悼み、嘆き、喜び、花を愛で、紅葉を賞美した、その確かな痕跡が、多くの人々の心ざし、尽力によってよみがえり、永遠の命を吹き込まれることになるだろう。人から人へ、時代から時代へ、繰り返し読まれ、伝えられることで生き続ける古典。祖先から我々に贈られた、何ものにも替えがたい、かけがえのない宝物、万葉集。この列島に人が生き続ける限り、この宝は永遠に失われることはないだろう。


万葉集覚書9

2019年11月03日 | 万葉集覚書
万葉仮名はどうして時代が降る中で読めなくなってしまったのだろうか。それもわずか百数十年という短い間に。この断絶はいかにも不可解である。和歌を読む歴史が途絶えたわけではない。漢字漢文は連綿として伝えられている。和歌を読み記録するのに必須であった万葉仮名が、ある広がりを持って普及していたであろうにもかかわらず、何故歴史のある時点で途絶えてしまったのだろうか。(木簡の出土などを考えると、万葉仮名が大伴家持を始めとした一部の宮廷貴族などある特定の小集団でしか通用していなかったとは考えにくい。柿本人麿歌集や山上憶良の類聚歌林など万葉集に先行する歌集も万葉仮名で書かれていたのではないだろうか)
万葉仮名を使わないとすると、和歌を詠む者はどうやって記録していたのだろうか。ある時点で誰かの発案又は朝廷の命令で、現行の(今に続く)仮名が一斉に施行されたわけではないだろう。これは大いなる謎というべきだ。
10世紀半ば、源順ら梨壺の五人が古今集に次ぐ勅撰集を編纂するかたわら、万葉仮名で書かれ当時すでに読めなくなっていた万葉集の読解を始めたということだが、古今集には万葉集にもある持統天皇の歌も(句が若干異なっているが)載せられている。誰も万葉仮名を読めなくなって口で伝承されていたから句の違いが生じたのかもしれない。万葉仮名のテキストがそもそも古今集の編者の手元にあったのかもわからない。
万葉仮名の断絶はこれ自体一つの「事件」と言って良いのではないだろうか。何らかの人為的なもの、作為がそこに働いていたと見られないだろうか。
大伴家持が天平宝字3年(759)正月、因幡国庁での新春を寿ぎする作歌を最後に忽然と和歌の歴史から消えてしまったことと、このことは何か関係があるのだろうか。この後さらに数十年、家持は生きながらえているのに、あれほど日常的に歌を詠んでいた家持の歌が一首も残されていないのも不思議だ。おそらく家持の手元にあったであろう万葉集が後世に残ったのも不思議ではあるが。








万葉集覚書8

2019年10月22日 | 万葉集覚書
防人は多く家族との離別の悲しみや旅の不安を歌っているが、それはそのままに受け止め、作者の心のありように思いをいたすべきだろう。それを「防人制度」への批判ないし批評と捉えるのは早計だろうし、逆に「大君のみことかしこみ」、「大君は神にしませば」などという言葉を誇大に解釈するのも作者の意に沿わないものになるだろう。
防人歌を採録した者は、人の心の実相をそのまま歌うことを歌の理想と考えていたようだ。実際には、歌の範を示されていたため、あるいは範に則り歌うことが当然とされていたためか、多くの防人歌は類型化から免れていないといううらみがある。
憶良にしても、貧窮問答歌で、非情な税金取りを恨むかのような歌を詠み込んではいるが、最後は「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と嘆くだけである。そもそも、それ以上のことを官人や貴族に求めることは無理というものだ。
巻第二十の防人の歌と異なり巻第十四の東歌の収集については注もなく、経緯がわからない。当時政権の中枢にいた橘諸兄が関わっていたとの推測もある。
多いのは若い男女の素朴な愛のやりとりの歌(誰か特定の個人の作というより、集団的な歌謡、俗謡、民謡の類いであったかもしれない)、地方から防人や公用で都などへ行く別れあるいは旅の歌である。
こうした歌は自分の楽しみのために記録したものではなく、聞く相手がいる中で、実用のため(例えば儀式や宴げなど)に詠まれたものであろう。あるいはそれを前提にしていたものだろう。
たとえば、上(毛)野国の歌には、多胡、入野、伊香保などの今に残る地名が出てくる。同国の巻二十の防人の歌には何故か地名が載せていない。
言葉は「東国訛り」である。それを発音のとおり万葉仮名で書き取るのだから、ある意味、万葉仮名の必要性はこんなところにあったのかもしれない。万葉仮名と今の仮名の関係は単純ではないだろうが、万葉仮名がその源泉の近くにあったことは間違いないだろう。
歌の贈答や宴席での歌の吟詠の記録には万葉仮名が使われていたのだろう。万葉仮名はひとつには和歌を記録するためにつくられたものかもしれない。