風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

万葉集覚書7

2019年09月30日 | 万葉集覚書
防人の出身地として記録されている地名(郡名)は、足柄、鎌倉、茨城、久慈、那賀、都賀、足利、河内、那須、塩屋、葛飾、結城、千葉、印波、小県、埴科、荏原、豊島、都築、秩父、埼玉など。 出身地でなく歌の中に詠まれた地名としては、筑波嶺、久慈川、鹿島の神、碓氷の坂、多摩の横山、足柄の坂など。 上野国のように、作者名のみで出身地名を記さないものもある。地名がどこで漏れたかは分からない。 
家持は歌われたまま、ありのままを記録する。勇ましい歌、雄々しい歌、悲しみの歌、哀惜の情あふれる歌。もちろん別離の悲しさの歌を採録しているからといって、家持が防人にかかる政府の政策に反対しているというわけではないだろう (おそらく政策の人為性に対して今日の人間が考えるのとは異なる考えをもっていたのだろう)。
家持が防人の歌に混じって自ら歌を詠んでいるのは、心動くものがあったからに違いない。2月8日(長歌+短歌2)、9日(短歌3)、13日(長歌+短歌2)、19日(長歌+短歌2)、23日(長歌+短歌4)と、都合5回も詠んでいる(17日には直接防人には関係ない竜田山の桜や難波の堀江に浮かぶ芥や公館から見える向かいの岡の人妻を詠んだりしている)。
 この回数は尋常でないというべきだろう。けだし防人の歌が家持の詩心(歌心)を大いに動かしたということだろう。その長歌は人麿の(高市皇子などの)挽歌を彷彿とさせる、枕詞を多用し荘重で格調高い調べで、返しの短歌は家持らしい情のこまやかで哀切極まりないものだ。 (続く)



万葉集覚書6

2019年09月29日 | 万葉集覚書
巻第二十に載る家持が採録した防人の歌には出身地と作者の名も併せて記録されており、無名の読み人知らずではないが、地方出身の防人が、言葉はその地方の訛りがあるにせよ、音数もあっているし、枕詞や序詞といった和歌の約束事もわきまえており、日本の地域のすみずみにまで、上流階層だけでなく中下層の人々にまで和歌が普及していたということを表しているのだろうか。もちろん指導や代作もあったかもしれない。 
その中で、2月22日に信濃国の防人の部領使が上進した12首のうち3首が採録されている左注に、この部領使は信濃国を出発したものの病を得て難波に到着しなかった旨が記載されている。それでは家持ないしその下僚に上進したのは誰だったのだろうか。あらかじめ信濃国を出発する前に防人から歌を聞き取り記録したものを手紙のような形(木簡?)で誰か無名の代理人が持参したのだろうか。それとも、旅の途中の病床で防人から歌を聴き取り記録したものを、誰か(防人の代表など)に託したのだろうか。 残された家族の立場で詠んだ歌(家族が作った歌)もあることから、あらかじめ出身地を出発する前に歌を記録していたのかもしれない。あるいは出させていたのかもしれない。そういうことを想像させる。中には、部領使か誰かが代作したものもあるかもしれない。別れのつらさと旅の不安を歌うグループと威勢のいい歌のグループとに大別されるが、代作はどちらかといえば、タテマエを歌う方に多かったのではないかと推測される。 
防人の出身地の東国(今で言う長野、群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、静岡など)には、今日に伝わる地名もあり感慨深いものがある。(続く)



万葉集覚書5

2019年09月28日 | 万葉集覚書
家持が兵部省の役人として難波で防人たちの歌を献上させた時、記録した者は防人たちに朗詠させたものを書き取ったのだろうか。防人たちが文字を知っていたとは考えにくいから書いて出させたのではないだろう。一人一人、防人たちが記録者の前で朗詠する場面を想像すると興味深い。中には威勢のいい覚悟を表明するものもあったろう。しかし多くは肉親との突然の別れを悲しむ歌を詠んでいる。それを詠むもの、書き取るもの、どんな感慨を持ったのだろうか。 
家持は下級官吏が聞き取って上進した歌をすべて採録せず、巧拙を吟味して拙劣を捨てたというが、これは表現された内容でなく(表現の)形式の巧拙を判断基準としたということだろうか。このとき捨てられた歌は海の藻屑のように永遠に失われて、我々にはもはや見るすべはない。歌を作った無名の防人の命が永遠に失われたように(もっとも、ひょっくり捨てられた木簡が難波の古い遺跡から出てくることが絶対ないわけではないだろうが)。
 兵部少輔、今なら防衛副大臣か政務官にでも当たる家持が、防人の妻や父母との別れを悲しむ歌を採録し、さらには防人の身になり代わって、家族の身を案じ、無事に家族の元に帰ることを祈る歌を詠んだということは、どういうことだろうか。家持は兵部省の高官である。尚武という考えからすると勇ましい威勢のいい歌ばかり残してもいいはずではないだろうか。文弱、女々しいと言われても仕方ないのではないか。まして大伴氏は建国神話以来の武門の家である。万葉集を政治的に利用しようと考える者からは困ったものだという声が聞こえてきそうだ。
しかし、父母や妻との別れを悲しみ、長く危険な旅を危ぶみ、無事に任期を終えて故郷に帰れることを願うのは人間の自然な情である。その自然な情を偽らずに表明し、偽らずに受け入れ、偽らずに共感するのが人間の姿であると、家持を始め万葉人は考えたのかもしれない。
醜の身盾とか海行かばとか大君のへにこそ死なめとか勇ましい部分ばかり取り上げられ、かつて近代の超克や国民精神総動員にも利用された万葉集だが、トータルで見るとこうした人間味あふれるところもある。(続く)



万葉集覚書4

2019年09月27日 | 万葉集覚書
天皇や宮廷貴族たちの歌ばかりでなく、防人や読み人知らずの庶民の歌まで集められた万葉集の成立の経緯は、その後の勅撰和歌集のそれとは自ずから異なるだろう。勅撰和歌集では律令国家にとって「不都合な真実」を反映した歌は当然選ばれなかった。 少なくともこれだけの規模で、古代の無名の地方の民が発した生の声、こころの歌が記録されている例は他の国、他の時代を見ても見つからないだろう。現に、日本でもその後の勅撰和歌集では、庶民の声や社会の矛盾に苦しむ人々の歌は載せられることはなかった。 
大伴氏も家持の頃にはすでに名門貴族の座は安泰ではなく、新興貴族の藤原氏などとの激しい抗争に明け暮れ、最終的には敗退したけれども、家持が集めた原稿が何らかの事情で心あるものによって廃却を免れ、奇跡的に後世に残ったのかもしれない。 家持の意識の中では、建国神話に遡る大伴家の存続と再興を、家の歴史と結びついた歌の伝統を守り継いでいくことで成し遂げるという意図もあったのではないだろうか。