防人の出身地として記録されている地名(郡名)は、足柄、鎌倉、茨城、久慈、那賀、都賀、足利、河内、那須、塩屋、葛飾、結城、千葉、印波、小県、埴科、荏原、豊島、都築、秩父、埼玉など。 出身地でなく歌の中に詠まれた地名としては、筑波嶺、久慈川、鹿島の神、碓氷の坂、多摩の横山、足柄の坂など。 上野国のように、作者名のみで出身地名を記さないものもある。地名がどこで漏れたかは分からない。
家持は歌われたまま、ありのままを記録する。勇ましい歌、雄々しい歌、悲しみの歌、哀惜の情あふれる歌。もちろん別離の悲しさの歌を採録しているからといって、家持が防人にかかる政府の政策に反対しているというわけではないだろう (おそらく政策の人為性に対して今日の人間が考えるのとは異なる考えをもっていたのだろう)。
家持が防人の歌に混じって自ら歌を詠んでいるのは、心動くものがあったからに違いない。2月8日(長歌+短歌2)、9日(短歌3)、13日(長歌+短歌2)、19日(長歌+短歌2)、23日(長歌+短歌4)と、都合5回も詠んでいる(17日には直接防人には関係ない竜田山の桜や難波の堀江に浮かぶ芥や公館から見える向かいの岡の人妻を詠んだりしている)。
この回数は尋常でないというべきだろう。けだし防人の歌が家持の詩心(歌心)を大いに動かしたということだろう。その長歌は人麿の(高市皇子などの)挽歌を彷彿とさせる、枕詞を多用し荘重で格調高い調べで、返しの短歌は家持らしい情のこまやかで哀切極まりないものだ。 (続く)