風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

万葉集覚書2

2019年09月15日 | 万葉集覚書
新しい元号令和の出典となった大伴旅人の梅花の歌の序は、中国の詩文の知識に基づく格調高い気品のある文章だが、素人目には、今でいうハイカラ趣味、宣長のいう「からごころ」臭がやや気になるところだ。 
とはいえ、梅花の宴の主催者で、筑紫歌壇の中心であった大伴旅人は、飲酒を讃える機知と諧謔にあふれた歌や、亡妻へのこまやかな感情に満ちた挽歌、中国伝奇小説に取材した松浦河の仙女の歌などヴァラエティに富んだ歌群を残し、このジャンルの文学の豊かさと幅を広げたのは間違いないと思われる。 
しかし、万葉集が中央貴族のコロニアルでサロン的な自足の世界とは異質な歌群を、それらに続けて載せているのは驚くべきことと思われる。それは、中国留学経験をもち漢籍仏典の知識にくわしい筑前国司山上憶良の歌群だ。 
官人でありながら、貧しく病に苦しむ人からさらに苛烈に税を取り立てる役人を糾弾するかのような貧窮問答歌。いい着物を着られる人とそうでない人の間に厳と存在する律令国家の格差を告発する社会派の歌。子どもは金銀に勝る宝と、人としての素直な感情をまっすぐに歌い上げる歌。その子どもを親より早く亡くす辛さを断腸の思いで歌った鎮魂歌。自らの病と死を見つめる歌。 
これらの歌が射程にしている世界の深さと広さは、自らの上部機関であり故郷でもある「あをによしならの都」を太宰府にいながら讃える旅人やその下僚たちには目に触れない世界、また、たとえ見えていても、歌に詠もうと思わない歌の世界だろう。(続く)




万葉集覚書1

2019年09月13日 | 万葉集覚書
万葉集に集められた歌を当時の人々はどのように詠んでいたのだろうか。
柿本人麻呂の枕詞をふんだんに駆使した長歌。非業の死を遂げた皇子を悼む挽歌。額田王や坂上郎女など女流歌人の相聞の歌。防人の歌。読み人知らずの東歌。
それらをどうにかして聞く方法はないものだろうか。
今の歌会始や百人一首の札の読み上げのように、テンポも一定で、抑揚のあまりない一本調子の節で詠んでいたのだろうか。
能や狂言など伝統芸能は、親から子、子から孫へと代々、口伝えで引き継がれ、作られた当時のものがほぼそのまま、今日まで伝えられていると考えられるとすれば、宮廷での伝統はそれほど往時と変わっていないと考えられるかもしれない。
しかし、宮廷での歌の詠みかたと、都から遠く離れた東国など、方言のようなものも含まれる東歌の詠みかたは同じだったと言えるのだろうか。鄙振りという言葉もある。
歌というからには、まして文字も普及していない時代には、歌は声に出して詠むものであって、今日のように文字で記してそれを黙読するのとはまったく違う創作ー受容のあり方であったに違いない。(続く)