天皇や宮廷貴族たちの歌ばかりでなく、防人や読み人知らずの庶民の歌まで集められた万葉集の成立の経緯は、その後の勅撰和歌集のそれとは自ずから異なるだろう。勅撰和歌集では律令国家にとって「不都合な真実」を反映した歌は当然選ばれなかった。 少なくともこれだけの規模で、古代の無名の地方の民が発した生の声、こころの歌が記録されている例は他の国、他の時代を見ても見つからないだろう。現に、日本でもその後の勅撰和歌集では、庶民の声や社会の矛盾に苦しむ人々の歌は載せられることはなかった。
大伴氏も家持の頃にはすでに名門貴族の座は安泰ではなく、新興貴族の藤原氏などとの激しい抗争に明け暮れ、最終的には敗退したけれども、家持が集めた原稿が何らかの事情で心あるものによって廃却を免れ、奇跡的に後世に残ったのかもしれない。 家持の意識の中では、建国神話に遡る大伴家の存続と再興を、家の歴史と結びついた歌の伝統を守り継いでいくことで成し遂げるという意図もあったのではないだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます