風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

万葉集覚書3

2019年09月17日 | 万葉集覚書
何故、憶良の目にはこうした庶民の世界が見え、そこに自らの感情を移入して詠むことができたのだろうか。 
太宰府は中央政府の機関で旅人はその長官だが、憶良は地方政府の長官だったという違いは確かにある。しかし二人の歌に現れた違いはそうした立場の違いからのみ生まれたわけではないだろう。 
詳しい出自が分からず渡来人のルーツの可能性も指摘される憶良と、神武東征神話に遡る由来をもつ名門貴族の大伴氏という出身の違いもあるだろう。もしかすると憶良は庶民に近い所で生まれ育ったのかもしれないと想像することは許されるだろうか。 
身分の低い生まれでありながらその学識により遣唐使の随行に抜擢され、中国の科挙による高度な文治主義を目の当たりにした若い憶良が、知が何事かをなしうると信じ、愚直なまでの理想主義を抱いたとしても不思議はない。 
「われをおきて人はあらじと」と、ふと漏らした不遜なまでの矜持(自己戯画化はされているが)はそのことを語っているように思われてならない。 
万葉集の編者とされる大伴家持は、憶良と同じように地方長官である越中国司となり、同じように国情視察もしていたようだ。憶良にシンパシーを持っていたかもしれない家持が編んだからこそ、宮廷貴族から見れば異質の世界、庶民の歌も集められ、結果として後世に残ることができたかもしれないのであって、それは日本の文学史だけでなく世界の文学史にとっても、僥倖あるいは奇跡と言っていいのではないだろうか。(続く)



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