やりましたね。26年ぶりの日本シリーズ制覇。
思わず買った雑誌には「日本一」となってますが、システム上そうなのですが、三浦監督も「日本一」とは言っていません。なぜなら、リーグ優勝をしたわけではないので。
リーグ3位から、クライマックスシリーズ(CS)で2位の阪神に勝ち、優勝した巨人にも勝ち、セリーグ代表となって日本シリーズに出ていました。それは7年前にもありましたが、そのときは今年と同じホークスに負けていました。
様々なことを思い出します。
私が横浜ファンになったのはいつだったか。確か高校時代からでしょうか。
よく遊ぶ2人がいました。学校に近い方の友人宅におじゃまし、よくプレイステーションの野球ゲーム「実況パワフルプロ野球」をやっていました。1人は阪神ファンでもう1人は中日。じゃあ私は、というところで横浜を選択していました。
横浜は、12球団で一番負けているチームです。プロ野球の初期からある巨人、阪神、中日が横浜より千試合以上試合数が多いにもかかわらず、です。今年度終了時で4394勝5369敗323分、勝率は4割5分。
三浦監督もよく負けたピッチャーでした。通算172勝184敗。これはプロ野球歴代13位の黒星の記録です。かつて阪神から熱烈なオファーを受け、出身が奈良なので移籍しようとしていましたが、多くのファンの声によって思いとどまった過去があります。そのとき彼はこう言ったそうです。「強いチームから勝ちたい」と。
26年前、リーグ優勝し日本シリーズも制した文句なしの日本一になったときの監督は権藤博さんでした。今年のシリーズ初戦で始球式を務め、85歳にも関わらずノーバウンドでストライクの投球。そして右手でガッツポーズ。
かっこよかった。そうでした、ああぼくは権藤ファンだったのだと思った。
26年前のシリーズ初戦、私はなぜか気仙沼におり、祖母とテレビで野球観戦していた記憶があります。思い出してみると、そのとき私は大学の3年で、3年から理学部から文学部に転部しており、かつ学生寮からも出た直後だったようです。文化の日もあって連休となったとき、ふと田舎に行きたくなったのかもしれません。
後で聞いた話ですが、祖母も横浜ファン(当初は大洋ホエールズ)だったそうです。なぜかといえば、気仙沼出身の投手がいたから。その名を島田源太郎と言います。祖母は島田のファンだったそうです。
島田は完全試合(相手を無四球無安打に抑えること)を達成しています。その年の1960年、当時の大洋はリーグ優勝し、日本一にも輝いています。当時の監督は三原脩(おさむ)監督で、選手起用が変則的(投手をすぐに変えるとか)で三原マジックと言われていました。
その38年後、今から26年前の1998年、権藤監督率いる横浜が日本一になりました。権藤監督は右膝を階段の上に乗せ、その上に右肘をついて右手で顔を支えるポーズで動かない。打順も変わらない。石井、波留、鈴木、ローズ、駒田、佐伯、谷繁、進藤。斎藤、野村、三浦、川村という先発ピッチャーがおり、五十嵐に盛田という中継ぎがいて、最後は大魔神、佐々木が締める。あのプロフェッショナルな集団が好きでした。銘々の個が最大限に輝いて、チームとして一つになって、マシンガン打線と言われて。
それからは3位になることはあっても優勝には届かない長い低迷期。優勝は38年周期説までささやかれて。有力選手たちの流出も続きました。
今年も3位。終盤に広島が大失速して。まあAクラスか、よくやった。そんな負け慣れたファンたちも多かったのではないでしょうか。
でも、今年は違った。シーズンが終わってからどんどん強くなっていきました。そんなチームを今まで見たことがありません。セリーグの混戦が選手たちを強くしたとも言えます。特に巨人との闘いは、もう本当にどっちに流れがいくか読めず、ずっと目が離せない。ヒリヒリしっぱなしでした。
シーズン中、あれほど失策が多かったのに(セリーグワーストです)、みんな球際に強くなっていました。三浦監督はこう言っていたそうです。「エラーは反省したら忘れろ」と。今年のチームスローガンは「横浜進化」。まさに言葉通りの選手・チームは進化していきました。
次へ、次へと反省を生かして進化し、持てる力を出し切って勝ち切る。一人一人が最高の仕事を果たし、好循環が生まれ、点が線となったとき、日本一のチームが生まれていました。
「夢は叶う」青いバラの花言葉。横浜はバラが有名でもあり、「夢は叶う」もチームとファンが共有する大事な言葉の一つになっていました。その通り、本当に叶いました。
感無量です。横浜ファンでよかった。
来年はリーグ優勝そして真の日本一を。
これからもともに、応援します。
ひどい負け方をするとついぼやき、寝つきが悪くなったりしてしまいますが、終わってみればその時間もありがたかったなあと。
「夢は叶う」私も続こう。
権藤監督の口ぐせは二つ。
「プロの意地を見せろ」そして「やられたらやり返せ」。
シンプルですが心の奥底に届く普遍性を持っています。
権藤さんの現役時代、1961年中日に入団し、69試合に登板、35勝19敗で新人王と沢村賞と最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振も獲得。翌年も30勝して最多勝利に輝くものの、投げ過ぎにより肩を痛め、1968年に引退。権藤、権藤、雨、権藤とまで言われました。1973年からコーチに就任しています。
よい成績を残したからよいコーチや監督になれるわけではありません。自分の経験をいかに他者に活かせるか。自分に通用したことが誰にでも通用するわけでもありません。「Number」には権藤さんによるシリーズの解説も載っています。それを読むと、ああこの人はよく野球を読む人なんだと感心しました。片肘ついてじっくり見ていたのは「野球」であって、野球を演じているプレイヤーの一人一人なのだなと。
7年前の宿敵ホークスを破っての日本シリーズ制覇。
やられたらやり返し、プロの意地を見せてくれました。
強いチームに勝ち、ミスを反省しては忘れ、進化し進化し、夢を叶えた。
様々なことがつながり、一つに集まるとき、人々は最高の力を発揮できることも私たちに見せてくれました。
本当におめでとう。そして、ありがとう。