泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

傷ついた物語の語り手

2010-05-05 12:17:23 | 読書
 やっと読み終えました。大きな本なので、自宅で机に向かって、書くように読んでいました。一月経ったのでしょうか。
 本書は、『ひきこもりの〈ゴール〉』(青弓社、石川良子著)でたくさん引用されていたので知りました。『ひきこもりの〈ゴール〉』自体が大変な労作で得るものが多く、どうやら背景の一つとなっているらしい『傷ついた物語の語り手』を読みたいと思った。また、題名が僕の心にストライクだった。
 物語を紡ぎ始めて、なぜ僕は書くのか?という問いが大きくなっていた。今まで小説は三度書いたけど、いずれも「ただ書いた」だけという感じがして。あるいは意識的じゃなかった。込めるものが不純だった。とにかく、自分でもわからないままに書き、書くほどに体調を崩していた。何かが欠けていた。
 著者のフランクは、自ら心臓病、癌を患った社会学者です。経験に根ざした問題意識は疑う余地がないほど研ぎ澄まされている。哲学者や私信を駆使して理論を組み立てようとする営みは、誠実で考え抜かれていて興味深い。彼の物語に触発されて、僕の物語にあらゆる側面から力が接続されたのは確かです。何箇所傍線を引っ張ったかわからない。私へと導き入れるように。
 まず「理論」は、生き延びるための装備であるということ。日常で生活が滞ったとき、必ず問いが生まれる。どうすればいいんだろう? 生き延びるために必死に探す。仮説を立て、試して正しければ先へ行ける。まだ生きられる。この過程で産み落とされるのが理論だということ。
 語りには三つのパターンがあるということ。回復の物語は、医者の言うことを従順に聞く優秀な患者が設定されている。上から下へ、こうすれば必ずよくなりますよという作られた明るさに満ちている。回復以外の道は伏せられている。患者自身の声は消されている。
 混沌の物語は日常の中断をもたらす。話にまとまりはなく、どこにいくのかもわからない。聴くものは不安を覚えるゆえに語り手を遠ざけようとする。終りはない。希望もない。それからそれから、と、矢継ぎ早に話さざるを得ないおびえた状態。
 そして、探求の物語。どうして私は病になったのか。その意味が問われる。過去は消えることなく、傷が証となっている。傷は、不変の私という存在の責任を伴う。語りは証言となる。他者との関係が半ば開かれ、物語は一つの模範となり得る。
 語りは偶然を拾い集めていく。私はどこから来て、どこにいて、どこに行こうとしているのか、確かめることができる。
 読書の間、母が病に倒れました。まったく日常は中断され、今までの秩序は崩壊した。母の言葉は混沌そのもので、最後は手を握ったり頬を撫でたりするしかなかった。それが伝わった。言葉は身体から発せられているのだと実感した。意識不明の中、家族は回復の物語にすがるしかなかった。きっとよくなると。目の前の現実を受け入れるのは容易ではなかった。そうした混沌のなかでしか生きられない人たちがいることも知った。
 言葉は使えた。身体から発せられているがゆえに、言葉から身体の状態が推測できた。母は腎不全であり、人工透析を繰り返すことで表情や足や言葉が、そのまますっきりとしてきた。いくら意識が落ちても、声は届いているというのがわかった。そこに、隠しようのない心が乗っているということも。
 苦しみは抵抗から生じる。苦しみは教えでもあった。変わる必要を示唆している。小刻みに日々行動していくこと。そのことで身体は物語に参加して、使える言葉たちが落ちてくる。
 どうして僕は小説を書くのか?
 うつ病を患い、自殺未遂まで経験し、傷を持っているからこそ、証人として語る責任がある。苦しみから脱していく物語が、あまりに社会に不足しているから。なぜ自殺者は減らないのか? 死んで行く身体は、そのまま生きる言葉を失っている。私が何をしたいのかわからない人たちであふれている。政治が、まったく信頼できない社会になっている。頼りになるのは、究極的に私一人しかおらず、その私を支えるのは自信でしかない。自分の能力をそのまま認め、伸ばしていこうとする配慮は元々備わっている。なのになぜ、人は人を殺そうとするのか? 自ら自らを殺そうとした人間として、だからこそ語る意味がある。語る世界が開けている。
 だから、僕は、小説を書きます。
 『傷ついた物語の語り手』 まったく僕はその一人です。健康であることを自覚せず、回復の物語に馴染まず、混沌のままでもいられず、書くことで探求を続けていくしかない人として。傷ついている人と共にいることができる人として。生きて在ることに感謝する人として。

アーサー・W・フランク著/鈴木智之訳/ゆみる出版/2002


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3 コメント

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なるほど (再び馬鹿息子)
2010-05-06 22:49:21
なるほど。問われるか…。前の項になぞれば、問うにしろ問われるにしろ、深い森を歩くように苦しいのだろうな。がしかし、といつまでも呟きながら。
でももう最後まで歩き続けたいです。
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問われている (きくた)
2010-05-06 21:14:39
問うたり思ったりしている主体はなんでしょうか?
私は問われている。ただここに生きているだけで。だから僕は聴くことを大事にしています。
世界への応答として書くのだと思う。人生に参加している証として。
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動機は違えど (馬鹿息子)
2010-05-06 10:14:13
しつこく思う。
本当にそう思っているのか自分に問う。
さらに思う。
等身大の自分を飾っていないか自分に問う。
文章を書く事はひとりで可能な一生をなげうつに適した何かと実感していますが、僕はこんな事を考えています。
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