泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

椿の海の記

2024-06-29 18:50:46 | 読書
 少しずつ読み進めていました。また、ゆっくりとしか読めない本でもあります。
 石牟礼道子さんの4歳のときの体験記、なのですが、『苦海浄土』と同様に文体が独特で比類がありません。
 エッセイでもなく、あえて言えば詩と小説が混ざったもの。音楽で言えば「交響詩」でしょうか。
 とにかく4歳のときをこんなにも記憶しているのかと驚きます。
 近くにあった「娼家」のこと。そこに務める女性たちを「淫売」と呼ぶ人の「淫売」に込められた気持ちを読み、それによって大人への好悪を決めていたこと。
 一番美しいと言われていた子が殺されたこと。
「娼家」から聞こえた「おかあさーん」という声。
 自ら花魁の格好をして、道を練り歩いたこと。
 髪結さんが「トーキョー」へ行こうと試みたけれど、親に連れ戻されたこと。
 深く焼酎を飲んだ父から杯を受け、飲み、1週間に渡って吐いていたこと。そのとき、もう「不幸」を感じ取り、小川に身を投げたこと。
 数を怖がる子であったこと。数には終わりがないので。
「花のように美しい子」と自分を比べ、生まれ持った差があると知ったこと。
 家業の道作りが負債を出し、家と土地を没収されて没落したこと。
 他にもたくさんのエピソードがありますが、特に印象深いのは道子のおばあちゃんのこと。
 祖母の「おもかさま」は、長男を若くして亡くし、夫には妾を作られ、正常な意識から追い出された人でした。
「神経殿(どん)」とも呼ばれた祖母は、目の見えない人でもありましたが、夫の気配を察知すれば雪の日も裸足で家から出てしまう。道子もまたおもかさまを連れ戻しに外に出ました。
 そんな祖母に、心無い子たちから石を投げられたこともあります。
 そんな祖母を、娘二人と孫との三人でおさえ、伸び放題の髪を洗う場面も印象深いです。
「無限の共感」と言った人がいましたが、後に『苦海浄土』を描く少女は、すでに魂への憧れも芽生えていたのでしょうか。
 目に見えないけれどもいる、人よりも位の高い存在への敬意。山から山桃を取ったなら、まず山の神様にお礼を伝えなければならない。そう教えられて育てられました。
 椿の咲く海岸沿いには、たくさんの神様たちがいました。神様たちとともに生きているのが当たり前でした。
 水俣は、清らかな水が豊かに流れていました。その水資源が目当てで、「会社」は電気を発電するためにやってきたのでした。
「神様」への畏敬はいつしか「会社様」へ移っていきます。
「会社様」は、化学肥料を作るために出た水銀を、生き物にとって有毒と知りながら川に流しました。
 挙げ句の果てが、水銀の毒に侵された魚たちをドラム缶に生きたまま詰め、海岸沿いに埋めることでした。
「椿の海」は、コンクリートの下に生き埋めにされてしまいました。
 それで終わったわけでもなく、今でも被害者からの救済の申し立ては続いています。国による詳細な調査がないためでもあります。
 石牟礼さんが書いて証明して見せたのは、いくら生き埋めにしようとも、ここに生きていた世界があったということ。
「前の世界」が何であったのかを知らなければ、「今の世界」が良くなったのか悪くなったのかもわかりません。
 昔だけが良かった、という話でもないでしょう。
 電気も必要だし化学肥料も必要です。でも、だからと言って犠牲にしていい生き物や土地があるわけではありません。
 ものすごい力技の一冊と言うべきでしょうか。
 ずいぶんと「神」が軽くなってしまった現代において、錨のような重さを備えた作品です。
 共感力と記憶力と描写力の賜物。
 どこか、この本を良さを伝えられそうな箇所を探したのですが、どこか一部を切り取ってみても、どこも違う気がします。
 もうすっぽりとこの『椿の海の記』にはまり込むしかありません。
 それでいいのだと思います。

 石牟礼道子 著/河出文庫/2013

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