泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

あやとりの記

2024-05-11 13:21:36 | 読書
 この本は、昨年熊本に行ったとき買い求めたものです。
 この本の中身をどう伝えたらいいのか、しばし想いに耽りました。
 適当な言葉を私は持っていないというか、どう言っても嘘になりそうだ、というか。
 なので著者の「あとがき」から引用します。
「九州の南の方を舞台としていますが、高速道路に副(そ)う情けない都市のあそこここにも立って、彼岸(むこう)をみつめ、”時間よ戻れ”と呪文を唱えたのです。
 どこもかしこもコンクリートで塗り固めた、近代建築の間や、谷間の跡などから、昔の時間が美しい水のように流れて来て、あのひとたちの世界が、現代の景色を透けさせながらあらわれました」
 物語の中で視点となっている「みっちん」は、5〜6歳の女の子でしょうか。著者の姿と思われます。
 みっちんの祖母と思われる「おもかさま」は、目が見えず、魂が遠くに行ってしまいがちな人。おもかさまとみっちんは仲良しです。
「萩麿」という名の馬がやってくる。萩麿を使って運送業をしているのは「仙造やん」。仙造やんは足が一本しかありません。
 仙造やんと親しくしているのは「岩殿(いわどん)」。岩殿は、火葬場の隠亡。隠亡というのは死者の火葬や埋葬を業とする人のこと。江戸時代の身分制では差別されていました。
 死人さんは燃えると温かくなる。岩殿も、思慮深く温かい人。その人柄に引き寄せられるように、二人の若者が慕っています。
 一人は「犬の仔せっちゃん」。彼女は身に纏ってるぼろの中に、犬の仔を隠している。せっちゃんは見送りの少ない死人さんをいつも気にして、花を摘んで持って来てくれる。
 もう一人は「ヒロム兄やん」。彼は巨人で片目が開かない。力持ちでちんどん屋の幟(のぼり)を持って歩いたりしている。非常に上等な挨拶を欠かさない反面、自分のことを「みみず」だと思い、銭を稼ぐのが下手な自分を嘆いている。
 みっちんの家に物乞いの親子が現れ、みっちんは小銭をその子に差し出すのですが、その子は受け取らず、小銭が雪に落ちてしまう、という場面も描かれていたりします。
 せっちゃんは、どこでもらってきたのか、子を産みます。海岸の洞穴の中で。そこには海神さまがいらっしゃると言われており、一人で産んだのではなく、海神さまに助けられたのだと言って。
 せっちゃんとヒロム兄やんには親がいません。せっちゃんは岩殿をはじめとした支援者たちによって命をつないでいます。が、いじめられることもあります。そのときの方が多いのかもしれません。
 せっちゃんを枝と言葉で痛めつけるガキ大将に向かって、みっちんは赤い小さな火の球みたいになって言ったのでした。
「神さんの罰のあたるぞう!」
 彼らは「ものいうな」を捨て台詞にしてぺっと唾を吐き、後退りしながら行ってしまいました。
「あのひとたち」は「すこし神さまになりかけて」いる人たち。
 みっちんは「魂だけになりたい」憧れを持ち、「あの衆(し)たち」や「位の美しか衆」をいつもどこかに普通に感じて共存している。
 あの衆たちは、コンクリートによって追い出されてしまったのでしょうか。
 でも、この「あやとりの記」に浸ると、現代の景色が透けてしまう。その奥に隠されてしまった昔の時間が美しい水のように流れて来る。
 何をどう読み取って、今に生かしていけるのか。それは読んだ人次第なのでしょう。
 そのままの復活や再生ではなく、現代ともあやとりをしていくものとして。
 宮沢賢治にとって岩手がイーハトーブだったように、石牟礼道子にとっては南九州がイーハトーブだった。
 ただ、石牟礼さんは、イーハトーブが破壊させられるのを見てしまった。理不尽な現代化を。
 許せなかった。どんな理屈にも屈せず、徹底的に人の側に立った。
 その人から湧き出す美しい水がおいしくない訳がありません。
 物語は、魂の飢えを満たすものだと感じています。

 石牟礼道子 作/福音館文庫/2009
 

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